そして、いわゆる五月病の季節でもあります。美しく変身する大自然、周囲のはつらつとしてる同僚・友人・・・。なんとなく、自分だけが立ち後れているような気がしたり、自分が軽んじられているような思いに苛まれたりする気がするのもこの季節です.春の変化にカラダにもココロにも変調を来しやすく、緊張感で対処して来たのに、ふと緊張の糸が切れて鬱鬱としてしまいがちです。とても辛いものですし、不安なものです.
どうぞ、そんなときは焦らないでください。
春の小さな変化を探しに とぼとぼと散歩にでかけたり、脳を空っぽにして淡々と単純な作業を繰り返してみたりして苦しい時間を通り過ぎてしまいましょう。瞑想もオススメです。何に祈るというものでもなく、立位でも座位でもいいですから、手を合わせ背筋を伸ばしてみる。そのまま丹田(たんでん・へそのした)に少し力を集め、目を瞑り自分に重力があることを感じてみてください。自分を軽んぜず、自分の存在を自然の重力の中で感じ始めてください。それから静かに息をゆっくりとはくのです。また少しずつ、自分らしい早さで、歩み始める事ができるかもしれませんよ。
さて今日の愛し野塾は、昨今新聞やテレビでも話題になります同性婚を巡るお話です。読者のみなさまは、この状況をどのように捉えられているでしょうか。日本では、欧米に比較するとこの話題について、深く考える機会が少ないように思われます。しかし、社会の一構成員として、すこし、考えてみるのも大切な事ではないでしょうか?
愛し野塾 第16回
同性婚について
4月24日付けの日本経済新聞で、同性婚や同性婚カップルが養子を取ることを認める、という要旨の法案が、フランスで可決されたことが掲載されました。仏オランド大統領の就任公約が実現した形となりましたが、一方で保守層の反発・大規模なデモもあったとのこと、賛否両論が法案可決の周囲に渦巻いていることは事実です。
日本では、2015年3月31日、東京都渋谷区の条例で、同性カップルを結婚に相当する関係を認め、「パートナー」として証明することが決定しています。日本国としては、依然、同性婚を認めていないことから、これは異例の条例の成立とみていいでしょう。そうした中、外国人同性カップルの日本滞在中の適用については、外交官や、米軍所属者については異性カップルと同様に扱うという、特例扱いの状況となっています。
4月22日、ニューイングランドジャーナルオブメディシンに、編集主幹のドラッツェン博士ら3名の医師が連名で、同性婚を支持する論評を発表しています(N Engl J Med 2015; 372:1852-1853)。米国では、11年前に初めて、マサチューセッツ州が、同姓婚を法的に認めました。現在では、35の州とコロンビア自治区で合法とされています。世論調査でも大多数の米国民は支持しています。国内でも88%のかたが支持しているという結果が見受けられます。しかし、米国でも、いまだ、オハイオ州、ケンタッキー州、ミシガン州、テネシー州などは、結婚の定義は男性と女性の異性同士によるものとして、同姓者同士のものは認めないという立場です。そこで、最高裁で審理されることになり、6月には裁定が下ろうというので、メディアもこの問題に敏感になっているという事情があります。日本のメディアでも論説で取り上げられています。最近東京新聞でも論説を目にする機会がありました。
医療の根本信条は、個人的な考え方を捨て、偏見を持つことなく、患者さんをありのままに受け入れることとされています。つまり国籍・肌の色・宗教等によって、患者さんを選別することがあってはならないことは、医療の大原則だと思います。しかしながら、これまでの同性愛者に対する対応には多くの問題があったことは認めざるを得ず、米国を含む多くの国々では、同性愛者を理解しようとせず、無碍に扱ってきたという歴史があります。日本では、江戸時代からの風習として、養子縁組を使って兄弟として取り扱ってきたようで、比較的同性愛者には、優しい国かもしれません。欧米では、同性愛者は、厳しい生活を強いられ、いろいろな場面で軽視されたり、嘲笑を浴びせられたりした上、村八分にあったり、ひどい場合には、殺害されたりすることもありました。精神医学の領域では、一時期、同姓愛は、逸脱行動として取り扱われ、これこそ根拠のない、馬鹿げた説でそれを説明しようとさえしました。実際、1987年までは、世界を代表する精神医学の教科書とされるDSMにも、そのような記述があったのです。現在に至っても、医療提供者のなかに、同性愛を疾病として治療しようとするものがいます。こうして虐げられてきた同姓愛者のかたがたが、信念を曲げ、偽装結婚をせざるをえなかったとしても、それは理解できるところだと思います。社会が同姓愛を認容しないため、両親が払った代償の大きさも、とてつもなく大きいものでした。汚名を着せられたり、汚辱にまみれさせられ、ストレスのあまり、不安神経症、うつ病を発病したかたもいましたし、最後の手段として、自殺をしたかたもいたのです。ドラッツェン博士らは、性的アイデンティティーは、我々自身が一体誰であるのかを示す重要な部分の一つであるという見解を示し、私も同感です。この社会で生きていくうえで、本人にとって自然な感情が、受けいれられず、人間として尊厳を得られないことを同性愛者のかたがたは、アイデンティティーに対する侵害と受け止めるでしょう。こうした社会背景では、普通の生活を営むのがいかに困難か、想像に難くありません。
同性愛者のかたがたが少しずつ住みやすい世界になってきていることもまた確かで、私も、職業柄、性転換を受けられ社会人としてごく普通に仕事をされておられるかたにめぐりあうことができました。彼ら、彼女らを差別する社会の存在はあってはならないと思いますし、社会的に受け入れられている姿を見るとほっとします。
一方で、同性愛者の受け入れを容易には許すまいとする勢力もあります。わずか数週間前のことですが、インディアナ州知事は、宗教的信条により支持されるものであれば、「同性愛者を差別しても良い」とする条例に、なんと誇らしげに署名したものです。幸い、大衆の怒りを買うことになり、知事は撤回の意向を示したのでした。前述の渋谷区のパートナー条例の決議においても、反対票を投じた議員がいたということでした。
同性結婚は、正義の観点から、そして、健全な社会及び、個々の健康促進の観点からも、社会が受け入れなければならないことがらであると博士は主張しています。結婚を法令で認めるということで、家庭安寧をもたらし、ひいては、健康促進にもつながることは間違いのないところでしょう。慢性の重症疾患の多くは、少なくともある部分、家族の問題に根ざしていることは良く知られた事実です。
医師としては、生死の問題が生じた場合、患者さんのパートナーと話をするのか、患者さんの配偶者と話をするのか、では、法的な意味合いが異なってきます。国内では、個人情報保護法が制定されて以来、患者さんの同意なしには、配偶者ですら話をすることが禁じられるようになりました。パートナーとなれば、ますますハードルは高くなるでしょう。子どもを育てることを希望する同性カップルが増加する昨今、彼ら・彼女らが「結婚」という法的に守られた状態を得ることは、それぞれの子どもの基本的人権を尊重する上で大変重要な問題です。
同性婚者らへの子育て支援・教育支援が通常通りあれば、終生幸せな家庭を得られる子どもの数が増える事が期待されます。さらに家族として保険加入が認められる事は、家族皆が健康に安心して暮らすために必須の事でしょう。
ようやく、米国最高裁で、この事案が取り扱われ、最終結論が出ようとしています。同性愛者が住みやすい世界になるよう、よい結論が得られる事を祈るばかりです。