2016/07/31

第80回 愛し野塾 自殺を思いとどませる信仰のちから


平成27年の統計から、自殺により命を落としたかたは、我が国では、24,000人を超えています。若い世代では、「自殺」は死因の一位でもあり、依然として深い悲しみを禁じ得ない状況です。わたしたちは、日本人として自殺を予防するあらゆる手立てについて、模索する責務があると思います。

一方、アメリカの白人女性に限定した最近の統計でも、1999年、10万人あたり自殺率4.7が、2014年の7.5へと、60%も増加していたことが報告され、一刻も早い自殺防止措置の実施推進が必要であることは、明白です。しかし、「自殺の予防因子」の研究はまだまだ端緒についたばかりです。

時代をさかのぼること、1907年。フロイトは、「信仰は、人間一般における強迫神経症と定義される。成長の過程で、人は宗教に背を向けることが必定となるが、宗教は、現実を忌避し、幻想世界に逃げこむ手助けをするシステムである」と著しており、「信仰を持つことは、自殺を思いとどまらせるのに有効かもしれない」、という一つの見方が生まれました。また、西洋諸国のなかでもキリスト教に代表される宗教のドグマには、「自殺は、愛する家族や友人に永遠の別れを告げさせるもので、悪とみなされる」という特性を有し、「信仰心は、自殺を思いとどめる潜在性を秘めているだろう」と考えられるようになりました。こういった背景から、「信仰」と「自殺予防」の関連性についての研究がさかんにおこなわれるようになりました。
ところで、既に行なわれてきた研究の問題点は、まず「自殺企図」や「自殺念慮」が分析対象となり、「自殺」そのものを勘案してきませんでした。さらに、前向き研究が難しく研究計画上、妥当性、信頼性に欠けることから、「自殺予防に信仰が有効かどうか」について、未だ推測の域を出ていないのです。したがって、この問題の解決には、「前向きのコホート研究」であることは明確なのですが、「自殺率」が値として小さいこともあり、統計学的な有意差を見いだす妥当性を十分に備えた結論を導くには、研究対象集団のサンプルサイズを<かなり>大きくすることは不可欠で、行き詰まっていたのでした。

そのような状況の下、2014年、米国ジョージメイソン大学のクレイマン博士らの論文でようやく、コホート研究が試みられました(Kleiman, E. M., & Liu, R. T. (2014). Prospective prediction of suicide in a nationally representative sample: religious service attendance as a protective factor. The British Journal of Psychiatry, 204(4), 262-266.)。

クレイマン博士らの研究の対象者数は、214人で、サンプルサイズは十分大きいと考えられました。彼らの研究によって「教会へ礼拝に赴く頻度が高いひとでは、自殺率は67%も低くなる」という結論がえられました。この結果は、信仰心は自殺を思いとどまらせる「自殺予防効果」がある、とそれまでの考え方を支持する結果を得ることが出来たのです。しかし、残念ながら、交絡因子となる、「うつ病者」の分析が脆弱であり、クレイマン博士らの研究の信憑性について、少なくない数の疑いの声があがっていたのです。

ところが、先月(20166月)、ハーバード大学のVanderWeele博士らは、クレイマン博士の調査研究の4倍を超える約9万人を調査対象に、「信仰と自殺」についてまとめ、発表したのです。VanderWeele博士らは、「うつ病」についても、交絡因子として調整した上で「頻繁に教会の礼拝に行く習慣のあるひとでは、約80%も自殺率が低くなる」という結果を報告し、あらためてこの命題について注目が集まっています。

VanderWeele, T. J., Li, S., Tsai, A. C., & Kawachi, I. (2016). Association Between Religious Service Attendance and Lower Suicide Rates Among US Women. JAMA psychiatry.

この研究は「ナースヘルススタディー」と呼ばれ、1976年に開始された大規模コホート研究です。対象は、30歳から55歳までの全米からリクルートされた121700人の看護師です。研究開始時から、ライフスタイル、及び健康医療情報について、2年ごとに質問表を用いて調査分析しました。1996年からは、礼拝参加の頻度について質問表による調査を加えました。自殺者数は、米国死亡者ファイル、国民死亡記録、血縁者からの情報提供をもとに確定しました。「自殺」は、国際疾病分類(ICD-8)によって鑑別されました。
交絡因子として、年齢、就労状況、アルコール依存症の家族歴、BMI,運動頻度、カフェイン摂取量、アルコール摂取量、喫煙歴、抑うつ症状の有無、疾患の有無(2型糖尿病、血圧、癌、高コレステロール血症)、収入、単身生活か否か、居住地域(東西南北の地域区分)、礼拝回数、社会統合スコア(婚姻状況、あるグループへの参加の有無、親友の数、親戚等で近しい人の数)が設定されました。

結果
対象者は、1997年の研究開始時は、89,708人でした。
<教会への礼拝について>
- 週1回以上参加する人が17028
- 週1度の参加する人が36488
- 1回以下の人が、14548
- 全く参加しない人が21644

大多数が、「カトリック」か「プロテスタント」の信者でした。礼拝参加回数の多いひとほど、抗うつ剤使用者は、少なく、同様に、非喫煙者、既婚者が多いことが分かりました。観察期間中36人の自殺者が認められましたが、礼拝参加回数が多くなるにしたがって、自殺者数が減ることを認めました。

1996年の段階でのサーベイで、週に1度以上礼拝に赴く人は、まったく礼拝をしない人に比較して、84%自殺率が低いことがわかりました。

また、この結果は、2000年のサーベイで施行した「社会統合スコア」、1998年に施行した「アルコール摂取量」、2000年に施行された「鬱病の症状」あるいは、「抗うつ剤の使用」を交絡因子として調整した場合でも、この結果は変わらないことがわかりました。
宗派による違いについて精査をしたところ、カトリック教の場合は、週に1度以上礼拝に赴く人は、まったく礼拝をしない人に比較して、95%自殺率が低いが、プロテスタント教の場合は、66%低くなることがわかりました。教義の観点から、カトリック教のほうが、プロテスタント教よりも自殺を忌み嫌うという特性があることにこの違いは起因するものと考えられます。

過去の研究から、礼拝回数が多いことは、すなわち、礼拝の参加者相互の社会的つながりが強化され、生きている事の「意味づけ」をしやすくなることが、自殺予防に効果があるのではないか、とされていました。しかし、今回、交絡因子として「社会統合スコア」を考慮して分析すると、その影響を受けないことがわかり、これまでの「礼拝に集まることで獲得される利益(自殺を思いとどまる)」という考え方は統計的には有意なものではないようです。同様に、アルコール摂取、鬱病の症状、抗うつ剤の服薬状況にも結果は影響を受けず、礼拝を通して教えられる「自殺が悪である」とする、教義が、自殺予防効果をもたらした、と考えるのが正しいようです。
一方で、今回の研究では、交絡因子として補正をおこなわなかった「パーソナリティ、衝動性、絶望の感情」といった人格に関する項目は、今後の研究に加えられるべき重要な検討課題となると思われます。

前向きの感情である「生きていることの意味づけや、目的、人生に対する楽観性、感謝の感情、寛大な気持ち」が、礼拝を重ねると高まり、潜在的な自殺願望抑止力を強化しているのだろうという意見もあります。

信仰心をもっているひとは、うつ病の発症が少ないということも過去の研究で報告されています。しかし、いったんうつ病に罹患すると、引きこもる傾向が強くなり、礼拝にいく回数も少なくなるでしょう。今後、うつ病のひとと向き合うとき、宗教心を持っているのかどうか、宗教行事にでかけているのかどうかなども加えて、自殺予防の観点から、注目していくことが必要になりそうです。ただし、日本で広まってきた仏教では、教義の中で「必ずしも自殺を罪としているわけでもない」ですし、また、歴史的に「切腹」や「殉死」「特攻」などに見られる、一部、自死を美学としてきた思想背景もあることは、「自殺したら地獄へ墜ちる」と教えられる西洋の文化的背景とは大きな違いがあることは明らかです。今回の研究の成果を我が国では、どのように生かしていくのか、家庭からアカデミックな立場から、議論すべき観点ではないかと思う所存です。

2016/07/19

第79回 愛し野塾 メンタル失調の治療介入体制のさらなる拡充とその整備(治療介入への投資費用と経済的見返りとの関係)





メンタル疾患に悩んでいる患者の数は、我が国では増加の一途を辿っています。その内訳に注目すると、うつ病や双極性障害、不安神経症を含む「気分障害」に罹患した患者の占める比率が顕著に増えていることに気がつきます。平成26年の調査では、「気分障害」を呈する患者数は114万人で、過去10年で約2倍に膨れ上がったという看過できない重大な状況が浮き彫りになりました。

厚生労働省の国内での調査結果(2009年)によると、メンタル疾患や自殺に伴う経済的社会的な損失は、少なくとも2.7兆円であり、この額は、GDP0.7%であることがわかりました。自殺者が、もし、自殺を予防できて、生涯働き続けられていたならば、その所得分が1兆9千億円であり、これは損失全体の70%強という巨額な割合を占めているのです。うつ病患者の生活保護の給付額分が3千億円に達し、加えて、医療費もほぼ同額と推算されています。うつ病患者が休業した場合の所得の減少額は1千億円。メンタル疾患は、患者当人、その家族の苦悩にとどまらず、いかに会社、地域、社会全体の問題であるかが、医療経済という側面から浮き彫りにされたのです。

さて、気分障害患者数が、なぜこんなに急激に増大したのでしょう。おそらく、産業効率を追求するがゆえに、実力主義・成果主義の台頭が顕著となり、それに伴って、年功賃金及び終身雇用を企業が維持することが難しくなってきたことが挙げられるでしょう。そのため、雇用される側のストレスが増加し、その悪化が気分障害患者を増やす主な原因となっているのではないか、と考えられます。また、グローバライゼーションによる企業間の国際競争の激化の末、倒産にいたる企業も後を絶たず、常に不安や緊張感が漂う労働環境であること、非正規雇用者の割合が増大し、職場における正規雇用者との不適正な職場レイアウトもまた、メンタル失調を引き起こす原因であることも鮮明化されてきました。

こうした、急激な労働環境の変化のもと、労働者のメンタル失調に対する抜本的対策について、国家レベルで見直すことは、緊急課題であることは言うまでもありません。

「メンタル失調の治療、及び予防」という命題について、世界に視野を広げても、具体的施策がとられていない現状が明らかです。日本などを含む高所得国ですら、メンタルヘルス対策として、年間、ひとりあたりわずか5000円の予算しかつけられておらず、低所得国ではさらに低く、200円という低予算と人権を無視したとも受け取れる現状です。治療を受ける側のニーズを満たすには、程遠い医療体制のもと、メンタル失調を来した患者とその家族の多くは、適切な医療が受けられず、途方に暮れているのが現状です。メンタル不調をきたせば、職場での生産効率は低下し、雇用主に損失を強いるだけではなく、それを補填するための労働負担によって、同僚のメンタルヘルスにも悪影響を与え、さらなる生産性の低下に拍車をかけるという悪循環がつくりだされています。

米国の試算では、メンタル失調等に伴う経済損失は、250兆円から850兆円、この損失は、2030年までには、倍増すると報告されています。私たちも、「日本でも、同じ道をたどることは避けられないだろう深刻な状況にある」ということを、まさに自覚しなければならない時だと思います。

これまで、メンタル失調者への治療介入にともなうコストの試算、介入による健康上の改善、すなわち「メンタル失調への介入の費用対効果の解析」について、それぞれの分野毎に特化した施策について、多くの研究報告が行われてきました。しかし、一方で、メンタル失調に悩む方を対象とした「包括的な施策」かつ、「広範囲な社会経済的効果を検討した研究」はほとんどありませんでした。今回ご紹介するランセット誌に発表された論文では、15歳以上のかたすべてを対象に、有病率が最も高いとされる、気分障害(うつ病と不安障害)に焦点を絞った「メンタルヘルス改善のための投資」をした場合、その経済的見返りがどの程度あるのかを解析した結果が報告されました。研究は、WHOのキスホルム博士が主導し、国際的にも高い注目を集めています。

Chisholm, D., Sweeny, K., Sheehan, P., Rasmussen, B., Smit, F., Cuijpers, P., & Saxena, S. (2016). Scaling-up treatment of depression and anxiety: a global return on investment analysis. The Lancet Psychiatry, 3(5), 415-424.

本研究では、日本を含む36カ国を対象国として、うつ病と不安障害に対して、医療投資を拡充した場合、その利益がどの程度あるのか、試算が試みられました。

研究対象となった地域は、WHOが定義する6つの主要地域すべてを含んだ世界人口の80%以上とし、鬱病と不安障害の患者数の80%以上を対象者としました。調査対象期間は、2016年から2030年とし、その間の、医療投資拡充施策が取られた場合に得られる利益が計算されました。

研究では、良好なメンタルヘルスの維持、及び健康的な生活の実現を「内在的価値」と定義され、良好な人間関係の形成、及び維持の実現、適切な労働環境、余暇を楽しめること、自身の生活全般において意思決定が可能であることなどを「手段的価値」と定義されました。これらの二つの価値のアセスメントをするにあたって、各国の医療措置必要者の人口数を求め、有効な介入をより大規模にすることで獲得できる「健康上の利益とはなにか」について定義されました。

介入治療の対象となった患者が、介入によって労働に従事することが可能となり、経済的生産性を上げた場合の経済効果、及び医療費の減少の程度を計算しました。「健康上の利益」の各項目はそれぞれ、「機能回復(機能低下時間が短縮すること)」、「回復率の改善(メンタル失調関連の有病率が時間経過とともに減少すること)」と設定されました。またうつ病の症例には、「自殺率の低下」「健康的な日常生活時間の延長」が介入によって獲得された利益としてのパラメーターとされました。

人口の試算には、国際連合が行った2010年の有病率の世界評価を用い、有病率はそれぞれ、不安障害が7.3%、うつ病は男性が3.2%、女性が5.5%という結果を得ました。2030年までの有病率の試算は、各国の医療で必要とされるリソース計算を世界で初めて可能にした、WHO作成の「ワンヘルス」キットが用いられました。このキットには、各国のうつ病、不安障害の有病率、発症率、回復率、死亡率、身体障害率を網羅した疫学調査結果データベースが含まれています。

治療手段としては、1)軽症の場合は、心理療法のみの介入とし、2)中等症から重症の場合は、最初のエピソードに伴うものか、繰り返す病態か、について区分した上で、心理療法と薬物療法の組み合わせによる治療を用いると仮定しました。

費用の計算には、WHOのデータベースにある2013年の各国の入院および外来での費用データが活用されました。1)軽症の場合は、1年あたり心理療法を4回施行した分の費用を概算、2)中等症から重症の場合、心理療法を14から18回分施行した場合の費用に加えて、6ヶ月間の抗うつ剤であるパキシル処方にかかる費用を合算しました。医療に従事する医師、看護師、心理療法士は、専門外のひとがあたることを仮定しました。3)重症例の場合、重症患者の2-3%のかたが14日間入院すると仮定しました。全費用の10%を医療者のトレーニング、薬の副作用のモニタリング、病気に対する市民への啓蒙などに要する費用がかかるものとして追加加算しました。
現在、うつ病の治療を受けているかたの割合は、全メンタル疾患患者数の7-28%で、不安神経症は、16-25%で、低所得国の場合は低く、高所得国の場合は、高いことがわかっています。治療介入の基準を拡大することで、高所得国の場合、ほぼ半数のかた、低所得国の場合でも3分の1のかたが治療介入された場合に要する費用について試算されました。

治療の効果

復職率は推定5%であり、これは、過去のデータ値の中央値でした。生産率の低下は、1年あたりの休職日数として示され、うつ病で4−15日、不安障害では、8−24日とされました。プレゼンティズム日数(出勤はしているものの、健康上の理由で本来発揮できるパフォーマンスが低下している状態)は、鬱病の場合、11−25日、不安障害の場合12−26日と試算されました。治療介入によって、休職日数、プレゼンティズム、ともに5%減少することが推定されました。

「健康上の利益によって帰結される経済効果の推算方法」には、スタンバーグ博士らが提唱する概算式が用いられました。彼らの研究から、すでに寿命が1年伸びることで、ひとり当たりの国家の歳入は、1.6倍に増加するという結果を得ています(Lancet 2014;383:1333-54)。

結果

仮に治療体制の規模拡大をしなければ、毎年120億日の労働日数の喪失が生じ、92.5兆円の損失があると推定されました。一方で、仮に治療規模の拡大をすれば、うつ病への治療介入に9.1兆円、不安障害の治療介入に5.6兆円が必要となり、仮にこれだけの投資を行えば、今後15年間で、うつ病患者数は、7300万人減少、不安障害は、4500万人減少することが予測されました。治療介入費用投入による「経済的見返り」は、投資額の2.3倍から3.0倍になることが予測されました。さらに健康上えられる利益を含めると、経済的見返りは、3.3−5.7倍になりました。

さて、これまでの研究例を参照すると、「マラリア予防対策のための投資とその経済的見返り」を検討した結果報告では、その経済的見返りは、投資額の28から40倍に及ぶことが報告されています。この数字は今回、得られた数値に比べて有意に高い値を示します。いうまでもなく、マラリアなど、感染症の投資に対する経済的見返りは明白で、投資に対する国民のコンセンサスが得られやすいのは事実です。また、母体・新生児・胎児・子供の健康増進に投資した場合の経済的見返りは、10倍程度であるにもかかわらず、この類の投資についても、国民のコンセンサスが得やすいことも倫理的・社会的側面から納得できるものでしょう。同じように、今回、施行されたメンタル失調者への治療介入拡大による経済的見返りの試算結果は、人間の尊厳の回復といった、いわば精神健康上の利益を加味すれば、前例の比率に匹敵するところであり、数値だけで単純に投資に対する見返りが少ないとはいえず、メンタル失調者への治療介入拡大という施策は、まさに投資に値する施策であると結論づけられます。

さて、本研究では、「有病率の予測値」は、これまでの様々な研究からえら得た知見をもとに概算され、それなりに妥当性があると考えられますが、一方で、全患者のうち治療対象になっている患者数を示す治療率の予測値の試算には、疑問を持たずにいられません。それは推定の概念として、今後15年間で治療を受けられるひとが、直線的に増加することを仮定している点です。そのためには、第一に、医療資源をこの方向に振り分ける政治的な決定が必要であることはいうまでもないでしょう。メンタル失調症の患者を診断かつ治療する体制を整備することは、世界経済が混迷する中で、さらに各国のあらゆる事情も察すると、毎年同じ率で治療率を向上させられるのかどうか、疑問が残るところです。治療率が向上し、さらにこうした改善策を過疎地域にまで拡大すれば、膨大な経費がかかるのは明らかです。事実、低所得国の多くの国においては、エボラやジカなどの感染症予防対策、水・衛生改善が優先されるでしょう。こうした背景からメンタル失調者治療介入の改善の方策は、かなり複雑化せざるを得ないことは明白です。

議論されるべきもう一つの問題は、経済的見返りの推算方法です。治療介入によって改善される、患者の労働参加率の向上、かつ生産効率の改善、総じて推算される経済的見返りの推定には、未だ確乎たる計算式が確立されていません。本研究で用いられたワンヘルスキットも、様々なデータソースをもとにつくられており、疾病率の予測、介入効果予測についての仮定条件も多く援用しており、正確性には、未だ改善の余地があるものとされています。

また、すでに精神保健分野で頻繁に議論されてきた、「母親の鬱病が子供の成長に与える影響」、「患者への金銭的、非金銭的援助が家族に与える影響」、「うつ病治療がそのほかの疾患(高血圧、虚血性心疾患など)に与える影響」、「うつ病と不安障害が併発した場合の治療の効果」、「社会経済的地位がメンタル不調に及ぼす影響」などについては、今回の試算では、考慮していません。こういった多角的な側面を捉えメンタル不調者への介入の効果を測れば、経済的見返りの程度はさらに大きくなることが予測されます。

いずれにしろ、メンタル失調症に対して抜本的対策を施すことなく傍観していることは、人道上、許されない状況です。今回の研究成果が、国の施策として一刻も早く、反映されるよう願うばかりです。国連が初めて「持続可能な開発目標 2016−2030年」に精神保健を取り上げたことも特記すべきことだと思います。今後、メンタル失調を来す患者を社会的に救うためにも、メンタル失調を「不名誉な病気」として捉える風潮を一蹴する、国家規模、地球規模のキャンペーンをはることは、早期の治療介入施策の社会的コンセンサスを得るためにも、重要なポイントとなるでしょう。



2016/07/12

第78回 愛し野塾 メチレンブルーが記憶を呼び覚ます?



理科の実験で使用された方もいらっしゃるでしょう。水溶液にすると美しい青色を呈する、染料としても知られている「メチレンブルー」には、記憶をアップする効果があるのではないか?と、昨今、注目されています。

メチレンブルーは、FDA認可を受けた医薬品として救急の現場でも重用されており、メトヘモグロビン血症の特効薬として汎用されてきた長い歴史があります。低容量のメチレンブルーは(Tolerability:有害作用が発生したとしても十分耐えられる)忍容性が高く、副作用が少ないことも知られています。メチレンブルーは、親油性という特性によって、高い細胞膜透過能を有し、細胞質内からミトコンドリア膜を透過し、ミトコンドリア電子伝達系に作用することで、エネルギー代謝を活性化させます。エネルギー代謝の活発な神経系のなかでも、特に「記憶」と関係する神経細胞への作用を介して、記憶力増強効果を及ぼすものとして注目されてきました。動物実験は30年前から開始され、すでに、メチレンブルーの記憶増強効果は各種認知試験で確認され、ほぼ確証が得られている段階です。

2014年には、ヒトを対象とした実験で、記憶増強効果があることがわかりました。

Telch, M. J., Bruchey, A. K., Rosenfield, D., Cobb, A. R., Smits, J., Pahl, S., & Gonzalez-Lima, F. (2014). Effects of post-session administration of methylene blue on fear extinction and contextual memory in adults with claustrophobia. American Journal of Psychiatry, 171(10), 1091-1098.

本研究では、42人の、閉所恐怖症と診断された患者を対象に、「閉所に入る」という行動学習を行わせ、恐怖を感じていた行動に馴化させ、閉所恐怖症が軽減、あるいは、消失するという「学習記憶」が増強されるのかどうかをみる試験(恐怖消去試験)が遂行されました。被検者には、ドアを閉めた部屋で<5分間の閉所に置ける恐怖消去学習>の直前に260mgのメチレンブルーが投与されました。6回の学習を終え1ヶ月経過後、別のドアを閉めた部屋で、恐怖試験が再施行されました。6回の学習後、<恐怖症が軽減した対象者>を比較検討すると、メチレンブルー投与群では、プラセボ投与群に比較して、30日後も恐怖レベルが低下しており、学習記憶の増強かつ持続効果が認められました(p<0.05)。一方で、<5分間の閉所に置ける恐怖消去学習>をおこなっても、依然として恐怖レベルが高い数値を示した対象者を試験30日後に分析した結果、プラゼボ投与群に比較して、むしろメチレンブルー投与群において高い恐怖レベルを認めました(p<0.05)。さらに、前述の恐怖軽減効果とは無関係に、認知機能増強効果の有無について、文脈依存記憶試験を用いて検討した結果、メチレンブルーによる、文脈記憶の増強効果(p<0.05)は有意に高いことが認められ、この結果は、閉所恐怖症のレベルとは無関係であることが証明されました。本研究の成果から、メチレンブルーにはヒトにおいても、記憶増強効果があると考えられるようになりました。

さて、今般、メチレンブルーがヒトの記憶を強化するメカニズムを、fMRI (functional magnetic resonance imaging)を用いて検討されました。その結果、脳の記憶に関与する特定の部位の活性化が見いだされ、注目されています。

Rodriguez, P., Zhou, W., Barrett, D. W., Altmeyer, W., Gutierrez, J. E., Li, J., ... & Duong, T. Q. (2016). Multimodal Randomized Functional MR Imaging of the Effects of Methylene Blue in the Human Brain. Radiology, 152893.

対象者は、 26人(22−62歳、プラゼボとメチレンブルー投与群とも、13人ずつで、平均年齢30歳、教育期間17年、右利き80%、30歳以上はそれぞれ3人ずつ、両群で均等に分布)で、無作為に、プラゼボ投与群とメチレンブルー投与群に振り分け、「注意の持続」と「短期記憶」に与える、メチレンブルーの効果について、fMRIを用いて調査されました。「注意の持続」の測定には、サイコモーター・ビジランス試験が用いられました。モニター上の光の点を映し出し、一時的に、その光を消します。このモニター上の光が消去されている時間が、「注意の持続」を要する時間と評価されます。消灯後、再び、同じ光を点灯したときにボタンを押す反応時間を計測します。一方、「短期記憶試験」では、「遅延見本合わせ課題」によって評価しました。ある図形(見本図形)を呈示し、一定の時間、その図形を画面上から消し(遅延期間)、その後、見本の図形と別の図形のふたつを共に画面でみせ、見本図形を言い当てた率を評価する記憶試験です。

サイコモーター・ビジランス試験中、fMRIによってメチレンブルー投与が、両側の島皮質の活性を有意に上昇(p<0.05)させることがわかりました。短期記憶試験中では、前頭前皮質、側頭皮質、後頭皮質において、それぞれの局所活性の顕著な上昇を認めました。またメチレンブルーを投与にすることによって、遅延見本見合わせ試験の正答率が7%増加しました(p<0.01)。一方で、サイコモーター•ビジランス試験における反応時間の改善は認められませんでした。本研究の実験結果から、低容量のメチレンブルーは、「注意の持続」と「短期記憶」を増強させる効果があり、この効果には、記憶に関与する脳の特定の部位が関与していることが示唆されました。脳の血流増大の関与について同じ条件下で検討した結果、メチレンブルー投与による同定された部位の血流増加は認められませんでした。この結果から、記憶増強に伴う脳特定部位の活性化は、血流増加に伴うものではなく、メチレンブルーによって生じたミトコンドリアにおけるエネルギー産生増強効果によるものではないかと推測されました。

本研究は、メカニズムを探求するためにfMRIを用いた神経生理学と心理学実験を組み合わせた大変インパクトのある報告でした。しかし、対象者数や対象者の年齢層には不満が残ります。もちろん、対象者ひとりあたりのfMRI画像から得られるデータ数が非常に多いことから、人数の少なさはある程度克服されているのかもしれません。しかし、汎用性まで考えると、今後はより多くの人数、かつ幅広い年齢層で検討され、データの妥当性が検証されることが望まれます。また、本研究は、メチレンブルーを単回投与のみのデータのため、今後は、メチレンブルー投与の容量、及び頻度と記憶増強効果との関連、また副作用等、忍容性についての検討が必要でしょう。本研究では、メチレンブルーの血中濃度が測定されていませんでした。血中濃度と記憶試験の結果との相関関係の有無にも興味が持たれます。薬物の代謝、反応性、忍容性は、年齢に応じて変わることが予想され、高齢者についての検討、また個々の腎機能、肝機能の関連についても検討が必要でしょう。

いずれにしても、メチレンブルー単回投与が、「注意」及び「記憶」試験結果の改善を認め、同時に記憶に関わる脳の特定部位が顕著に活性化される強い可能性を示したという事実によって、もはや人間の尊厳を脅かす記憶障害に対して、メチレンブルーが貢献することを期待せずにはいられないところであります。

2016/07/05

第77回 愛し野塾 動脈硬化の引き金となる「腸内細菌」



心筋梗塞や脳卒中に代表される「心血管病」は、血管内に血液凝塊が形成され血管内腔が閉塞されることで引き起こされます。「ずり応力」とよばれる「血流の速度と粘性が血管壁に及ぼす物理的な力」が、動脈硬化や血流の鬱滞によってバランスを崩し、血小板や凝固因子の活性化を促します。この活性化は血液凝塊、いわゆる血栓をつくりやすくします。血小板は血管の傷ついた場所に付着し、さらに血小板そのものからも活性因子を放出し、血小板が互いに結合することで凝塊が形成されます。

こうした血小板の活性化メカニズムを明らかにし、血小板由来の凝固促進因子をターゲットとした治療法の開発を進めることによって、心血管病予防方法の刷新が期待されています。最新の厚生省の統計から、日本人の死亡原因の約4分の1が、心臓病(15%)もしくは脳卒中(9%)であることが示され、厚生労働省によって2016630日、2018年から都道府県の地域医療計画に「これら疾病に対する医療体制を強化すること」が決定され検討会が立ち上げられました。

さて、それに関連した大変インパクトのある研究が報告されました。米国クリーブランド・クリニックのスンレー・ヘーゼン博士らによって、腸内細菌の代謝産物である「TMAO」(トリメチラミン•オキサイド)が血小板活性化をきたす決定的因子であることが証明され、科学誌「Cell」に掲載されました。

Zhu, W., Gregory, J. C., Org, E., Buffa, J. A., Gupta, N., Wang, Z., ... & Sartor, R. B. (2016). Gut Microbial Metabolite TMAO Enhances Platelet Hyperreactivity and Thrombosis Risk. Cell, 165(1), 111-124.

最近10年間の研究で、腸管に生息する3万種、100兆個の腸内細菌が、動脈硬化・肥満・2型糖尿病の発症に関与している可能性がクローズアップされてきました。なかでも、腸内細菌が関与して生成されるTMAOについてその代謝経路が明らかとなってきました。まず、食物から摂取されたコリンの代謝物が、腸内細菌の代謝を介して、トリメチラミン(TMAに変換され、TMAが、腸管から吸収され、肝臓に運搬され、FMO(フラビン含有モノオキシジェネース)と呼ばれる酵素作用によって、TMAOに転換されます。ヒトでは、卵や肉がTMAOの血中レベルを上昇させることが知られています。これまで血中TMAO濃度の上昇に伴う、冠動脈疾患のリスク上昇が報告され、コリンを多く含む卵や肉の過剰摂取によって、動脈硬化の悪化を惹起するというメカニズムをよく説明してくれています。動物実験では、抗生物質の投与によって腸内細菌を死滅させると、血中TMAO濃度は顕著に低下し、逆に、抗生物質投与の中止によって、血中TMAO濃度は通常レベルに回復することから、TMAO産生には、腸内細菌の存在が必須であることは明らかとなっています。このことから、<TMAOを介した動脈硬化>をターゲットとした治療法確立の目的で腸内細菌叢への介入に注目が集まっています。

さてCELLに発表された研究では、疫学調査をもとに、「血中TMAO濃度の上昇」と「血栓形成リスクの上昇」の因果関係が明らかとなりました。4,000人を超える対象者の血中TMAO濃度と、血栓形成を主体とする病態(心筋梗塞および脳卒中)の関係を分析した結果、血中TMAO濃度が最高を示す群は、最低を示す群の1.64倍の発症リスクの増大を認めました(p0.001)。生理的濃度下では、TMAOは、ずり応力の刺激によって、固相化したコラーゲンに対する血小板の接着率を有意に上昇させることも示され、ずり応力がTMAO反応性の血小板接着率に強く影響することを認めました(P<0.0001)。また、通常、血小板の細胞内カルシウム濃度は低レベルで維持されていますが、TMAOの存在下では、血小板の細胞内カルシウム濃度が上昇し、これによって「ADPを介した血小板の活性化」を、TMAOが増強することがわかりました。コリンを多量に含んだ高コリン食をマウスに投与すると、TMAO依存性の血小板活性化による血栓形成が促進されますが、あらかじめ抗生剤を投与し腸内細菌の除菌を施したマウスにコリン食を与えても、血栓形成は促進されないことが明らかになりました。
本研究では、新規に以下の点が認められました。
「特定された9種類の腸内細菌叢がTMAO産生に関与する」
「特定された15種類の腸内細菌叢が血栓形成と相関がある」
「腸内細菌叢のないマウスに、正常マウスの便に含まれる細菌叢を移植することで、血栓形成の促進が認められる」
さて、これら一連のエレガントな研究結果から、TMAOが血小板の活性化を惹起し、動脈硬化を悪化させることは明らかなようです。

動脈硬化予防・治療に臨床応用するためには、食事性のコリンが、腸内細菌を介して最終的にTMAOとなる代謝過程のどこかで、「腸内細菌叢への介入」をおこなえれば、TMAO産生を制御可能とする可能性あると考えられ、動脈硬化を予防できる新たな可能性が広がったと考えられます。

具体的にTMAOを抑制するためには、どのような仮説が立つでしょうか。第一に、「3,3ジメチル1ブタノール」が候補にあがります。すでに動物実験下で、この物質「3,3ジメチル1ブタノール」は、腸内細菌によるTMA産生を抑制し、コリンを含む食事による動脈硬化促進増加作用を抑制することを認めています。将来ヒトへの臨床応用のために、3,3ジメチル1ブタノールあるいはその類似物質によって、動脈硬化予防作用が期待されるところです。第二に、FMO3を治療のターゲットとする手法です。インスリン抵抗性を有する肥満症例では血中FMO3値の上昇が認められ、FMO3ノックダウンマウスでは、高血糖、高脂血症が抑制され、動脈硬化を予防できることが証明されているところから、FMO3を治療のターゲットとして臨床応用できそうです。シンプルに「コリンの摂取」を控えればいいだろう、と考えるかもしれません。しかし、コリンは、細胞膜の形成、循環器系への作用、脳機能制御に必須な役割を果たしている重要な栄養素であり、たとえコリン摂取を減らして、動脈硬化を予防することができたとしても、他の重要な人体機能に障害を来すかもしれないという、ジレンマをかかえることになるでしょう。


今後、腸内細菌叢と動脈硬化予防・治療について、ヒトへの臨床応用のポイントは、1)適切なコリン摂取量、2)血中TMAO濃度を下げることの是非の検討、であると考えられます。今後、コリンにまつわる研究の進展が、動脈硬化あるいは、肥満、糖尿病、脂質異常症の抜本的問題点を解決できる鍵となるかどうか、期待をもってみまもりたいと考えます。