2015/10/27

愛し野塾 第46回 遺伝学的側面からみたASD研究の進歩



自閉症スペクトラム障害(症)(ASD)は、自閉症やアスペルガー症候群を含む連続的な広い範囲(スペクトラム)の病態を指し、社会性の障害(他人への反応やかかわりの乏しさといった社会的関係形成の困難さ)、言語コミュニケーション能力の障害、柔軟性を欠いた常同・繰り返し行為、スコープの限られたこだわりのある興味の示し方、などの特徴的な行動現象を認めます(米国精神医学会による診断基準であるDSM-Vを参照)。

ASDの有病率(言葉の使い方として、病気・障害・異常・症候・現象 etcか、という議論もありますが、ここでは、国際的基準に照らしそれぞれの論文上で使用されている表現を使用しております)は、1%から1.47%と極めて高い数値が報告され、双子研究などから、遺伝性疾患であることがおおよそ判明しています。しかしながら、鑑別診断に適応するかたを個別にみますと、多種多様な行動特性(アブノーマリティ)を示し、その病態は多様で、行動障害の実像は、それぞれ異なります。調査・研究をする上で、不均一な集団が対象となることもあり、大規模な遺伝子研究を遂行して、遺伝子異常がピックアップされても、実際は、どの遺伝子がどの特定の行動障害を惹起する原因遺伝子となるのかは、特定できないのが現状です。

大規模な遺伝子研究として代表的な研究の一つは、2014年に「ネイチャー」に報告された論文でしょうDe Rubeis, S., He, X., Goldberg, A. P., Poultney, C. S., Samocha, K., Cicek, A. E., ... & Parellada, M. (2014). Synaptic, transcriptional and chromatin genes disrupted in autism. Nature, 515(7526), 209-215.3871人のASD患者と9937人のコントロール群を比較し、擬陽性率が5%未満の遺伝子を22個、擬陽性率が30%未満の遺伝子が107個発見されました。発見された遺伝子の多くが「神経シナプス、転写、クロマチンのリモデリング」に関与することがわかり話題になった・・・、といった進捗状況です。



こうした膠着状態を打破すべく、ASDの発症原因として強く結びつくとされる単一遺伝子の異常と、遺伝性や代謝性の疾患群を精査したのが今回紹介する研究報告ですRichards, C., Jones, C., Groves, L., Moss, J., & Oliver, C. (2015). Prevalence of autism spectrum disorder phenomenology in genetic disorders: a systematic review and meta-analysis. The Lancet Psychiatry, 2(10), 909-916.

英国バーミンガム大学のリチャーズ博士らが報告しています。先述のネイチャー掲載された研究の手法は「原因遺伝子をASD患者から探求する」という「トップダウン」形式の取り組みとすれば、リチャーズの研究は、「すでに原因遺伝子がわかっているASD患者からASDの原因を探る」といった「ボトムアップ」形式の研究手法となります。トップダウン形式では、特異性の明確な結果に到達できず停滞していましたから、ボトムアップ方式は、それを打破する方法として期待されてきました。

対象となった疾患群(レット症候群、結節性硬化症、脆弱X症候群)については、ASD様症状が頻発することは認識されていましたが、それぞれの正確なASDの有病率は推定にとどまり、「ASD研究を進めていくうえで、どの疾患をメインターゲットとして選択すべきか」といった議論にあがってきました。

ASDの診断には、熟練した専門の医師・カウンセラーによって細かに決められた問診をする必要があり、すなわち多くの時間と労力を要するという理由で、疾患ごとのASD発症率の算定をあいまいにしてきました。そこで、今回の研究では、ASDの診断についてではなく、「現象(Phenomenology)」に注目し、「ASDに特徴的な行動異常がある患者」を対象に調査をしました。

対象となった疾患は、16種類の極めてまれな遺伝性及び代謝性疾患でした。32230本の論文を精査し、基準に見合う158本の論文を選別し、メタ解析に供しました。

<レット症候群との関係>

進行性神経疾患である「レット症候群」で、「61%」と極めて高率にASD現象を伴うことがわかりました。この疾患は、オーストリアのレット博士によって1966年に発見され、ほとんどの場合、女性に発症することが知られています。X染色体に原因遺伝子(methyl CpG binding protein 2, MECP2が存在し、この遺伝子の異常を来すと男子では生存が非常に難しいことがその理由です。MECP2遺伝子はレット症候群の唯一の原因遺伝子です。正常に生まれ、生後6ヶ月から18ヶ月頃に運動機能退行が生じ、「食べる」「持つ」など目的に応じた運動行動に障害が生じ、さらに歩行困難に陥ることや、会話や、凝視も難しくなるという、特徴的症状を認めます。また知的障害も認められます。15000人にひとりの割合で発症するといわれています。一般のASDが男子に圧倒的に多いという事実から、女子に多発するレット症候群は、ASDの原因を探る上では、他のバイアスによる混乱が少なく、望ましい研究対象となりうるのではないか、と考えられています。MECP2遺伝子の機能を解明することは、レット症候群だけでなく、一般のASDの治療・介入にも役立つアイデアが得られる可能性が期待されています。動物実験のレベルでは、BDNFブースター、セロトニンアゴニスト、NMDA受容体作動薬が、治療効果があるとされ、臨床応用されようとしている段階です。

<結節性硬化症との関係>

「結節性硬化症」は、「37%」と高率でASD現象を認めることがわかりました。「結節性硬化症」とよばれる疾患は、顔面血管線維種、てんかん、知的障害の3つが、特徴的症状とされます。脳内に1cmの以上の大きさを持つ腫瘍「上衣下巨細胞性星細胞腫」が、結節性硬化症の鑑別診断を受けた患者の6%以上に認められ、小児期から思春期にかけて細胞腫は急速に増大し、頭痛や吐き気等の症状をもよおすことがあります。海外では6000人に1人の割合で発症すると推算されており、日本国内でも1万人以上の患者がいると考えられています。原因遺伝子は、細胞増殖や細胞の大きさを制御する「TS1」「TS2」と呼ばれる2種類で、この2つの遺伝子によって、その経路の下流に存在する「mTORC1」の機能が制御されています。結節性硬化症では、TS1、もしくはTS2の遺伝子異常によって、mTORC1が持続的に機能亢進されるため、体のいたるところに腫瘍が形成されます。腫瘍形成に随伴して、種々の症状を引き起こすことから、腫瘍形成の抑制を目的に、mTORC1阻害剤が汎用されています。代表的な腫瘍阻害剤は、「エベロリムス」で、すでに「結節性硬化症に伴う上衣下巨細胞性星細胞腫」の治療薬として承認されています。このmTORC1阻害剤による治療が、「結節性硬化症に頻発しているASDの社会交流障害の改善の可能性がある」という仮説に基づきデザインされたマウスを用いた研究では、この仮説を支持する報告が行われています(Sato, A., Kasai, S., Kobayashi, T., Takamatsu, Y., Hino, O., Ikeda, K., & Mizuguchi, M. (2012). Rapamycin reverses impaired social interaction in mouse models of tuberous sclerosis complex. Nature communications, 3, 1292.)mTORC1阻害剤は、今後、ヒトASD様行動の改善を目的とした治療剤として期待されるでしょう。

<脆弱X症候群>

「脆弱X症候群」には、ASD現象が「26%」に認められました。脆弱X症候群は遺伝性の疾患で、主に「知的障害」や「精神発達障害」、「ASD様症状」が出現します。原因は、「FMRP」(fragile X mental retardation protein)蛋白の欠失とされます。ヒトを対象とした臨床研究では、FMRPの異常によって過剰に活性化したmGluR5 (代謝型グルタミン酸受容体5)を抑制するため、mGluR5阻害剤などが使われています。この阻害剤が、ASD様症状にも効果がある可能性が期待されることから、マウスを用いた研究で、常同行動が減少し、社会交流障害の改善効果を認め、今後ヒトへの応用研究について期待されています (Silverman, J. L., Smith, D. G., Rizzo, S. J. S., Karras, M. N., Turner, S. M., Tolu, S. S., ... & Crawley, J. N. (2012). Negative allosteric modulation of the mGluR5 receptor reduces repetitive behaviors and rescues social deficits in mouse models of autism. Science translational medicine, 4(131), 131ra51-131ra51.)

実は、ここに紹介した治療薬が、「人間」のASD様症状に対し効果があるか否か、を検討するといっても、いまだ対象者や効果の判定方法等、研究計画には、大きな問題が立ちはだかります。鑑別診断ですら専門的技術を要するわけですから、さらに個々の治療の効果を観察することは容易ではないことは想像に難くありません。かつ今回例に挙げた疾患には、知的障害も伴う症例も含まれ、実施には一層の困難をともなうでしょう。まずは、ASDを正確に診断できる体制を整えたうえで、治療効果を判定していくという研究環境のスタンダードを整えることは必須でしょう。もちろんそんなことは、ボトムアップ方式の研究だけでなく、トップダウン形式の研究を含むASD関連研究全般に言えることだと思います。

あらためてASDの治療法開発への道のりはかなり遠いものと実感してしまいます。しかし、生きづらさを伴うASDの症状は、本人はもとより家族にとっても、生涯を通して「生活の質」そのものに影響してくるものです。教育・福祉・医療、様々な立場からの介入・治療法について改善策を問い続ける継続的なアプローチを望みます。


2015/10/22

愛し野塾 第45回 移植技術の革新的進歩ーブタからの臓器移植の可能性

移植技術の革新的進歩
 国内で心臓移植の適応となる患者さんの数は、年間500人から600人いると言われています。日本心臓移植研究会のホームページhttp://www.jsht.jp/registry/japan/)によれば、心臓移植に適応する患者(心臓移植レシピエント)であると診断を受けても、移植臓器が充たらず、他界されるかたは、228人から670人いると推算されているようです。2014年末までの統計では、心臓移植に登録していたレシピエント候補939人のうち、248人が亡くなっているということでした。事実、移植術以外の治療では、救命・延命が難しいとされる心臓移植適応レシピエントの1年生存率は、わずか50%と見積もられているのですから、緊急を要するレシピエントがほとんどなわけです。

日本は、臓器提供数が少なく、移植技術はあるものの移植術が積極的に行われていないという厳しい現実に直面しているといえるでしょう。米国やヨーロッパでは、人口100万人あたり臓器提供者は、56人という割合ですが、日本は、100万人あたり0.32人と、欧米の約20分の1(2014年統計)という大変低い臓器提供率であり、臓器提供そのものへの抵抗が明らかです。

さて、心臓移植を受けた心臓移植レシピエントに注目してみます。2014年末までに心臓移植を受けたレシピエントは、222人いますが、そのうち206人は生存され、そのうちの200人は、外来通院によって日常生活を営まれていらっしゃいます。いかに、国内の心臓移植レベルがパワフルであるのか、を物語っているといえるでしょう。WHO(世界保健機関)は、自国の移植は自国で思考するという、勧告をしています。こうした社会的背景からも、レシピエントの救命・延命、そして社会生活への復帰を念頭に、心臓移植・臓器提供賛同へのコンセンサスを得るためお啓蒙活動の継続は必要でしょう。しかし、日本人としてもっている宗教的・思想的な「精神と肉体、魂を総合した生命の価値観」と「合理的な医学的思考体系」は相容れない側面を持ち、臓器提供には限界があるのかもしれません。したがって、啓蒙活動と同時に、別な角度からの問題解決法について、視野を拡大することも必須でしょう。 

さて、今回の愛し野塾では、この慢性的臓器不足を解決するかもしれない「ブタのヒトへの臓器移植の可能性」について、新しい論文が発表されましたので解説をしたいと思います。
10月11日号の「サイエンス」にハーバード大学のチャーチ博士率いるグループが、ブタからの臓器移植の最大の壁といわれてきた「ブタ内因性レトロウイルス(PERVs)」を、駆逐することに成功したことを発表しました。

ブタからヒトへ臓器移植をすることによって、PERVsがヒトに感染し、重大な障害を起こすのではないか、と研究を停滞させる強い懸念がありました。今回の研究報告は、ブタの腎臓上皮細胞細胞株であるPK15から、すべてのPERVsを除去することに成功したというものでした。

これまでは、厳格なバイオセキュリティ(防疫対策)のもとでブリーディングを行った場合でもPERVsを駆逐することはできませんでした。そのため阻害RNAを使ったり、ワクチンを用いたり、これまでありとあらゆる方法によるウイルス除去が試みられてきましたが、成功に至ることはありませんでした。今回、チャーチ博士らは、こうした苦難を乗り越え、研究を続け、ゲノムの任意の部位を切断する“CRISPR-CAS9” (clustered regularly interspaced short palindromic repeats / CRISPR associated proteins)とよばれるシステムを用いてゲノム上に存在するすべてのPERVsを取り除くことに成功しました。この切断システムは、2012年に、カリフォルニア大学バークレー校のドーナ博士が開発したものです。ゲノムのDNAを「編集(edit)」する新技術として、細菌のストレプトコッカス「CRISPR」免疫システム中に、ゲノムをはさみのように切り刻む「CAS9」蛋白を発見したことが始まりでした。ウイルスのDNAをターゲットにして標的にして切り刻むという性質を今回の実験で利用したのです。

まず、チャーチ博士らは、ゲノムシークエンスを施行することで、PERVsの数について「62」と決定しました。62個も存在する遺伝子を一網打尽にやっつけることは、これまでの常識では無理と考えられていました。これまでは、なんとか6個の遺伝子を不活性化するのが最大で62個の不活性化の実現は難しいと考えられていたからです。
しかし、チャーチ博士はこの難問を諦めるどころか、さらに一歩踏み込んだのです。チャーチ博士の「ブタから移植につかえる臓器をつくること」への挑戦は彼自身の研究人生の命題でもあったからです。試行錯誤を繰り返し攻撃の要である「CAS9」の持続的な発現系」を開発し、「62」個すべての遺伝子の不活性化を実現したのです。同時にこの不活性化プロセスによって標的化された62個以外の正常ゲノムには異常を認めず、標的の特異性が確認されました。また不活性処理したブタの細胞とヒトの細胞を混合させ、PERVsの感染効率が1000分の1まで抑制されたことを確認し、チャーチ博士のプロトコールによってブタ由来ウイルスPERVsを除去した細胞は、ヒトの移植に適応することが示されました。

今月(2015年10月5日)にワシントンで開催された米国科学アカデミーの例会で、チャーチ博士は62個のPERVsを不活性化した培養細胞株の他、すでに「エンブリオ」作成に成功していることを発表しました。加えて、ブタ臓器の移植時に生じる拒絶免疫反応を引き起こす「20」個の細胞膜タンパク質をコードするDNAを不活性化した「エンブリオ」の作成も成功させました。こうしたヒトへの移植適応処理をされた「エンブリオ」はすでに、母ブタに移植され、ヒトの移植実験に使えるブタの誕生を待っている状況に達しているということです。今後はハーバード大学で、このブタの臓器を用いて移植実験及び、検討が行れます。

臓器不足を解消する可能性のある、「ヒトに感染力を有するウイルスが除去され、移植拒絶反応を起こさない<ブタ由来の臓器>」の移植が現実味を帯びてきました。個人的に興味深いのはチャーチ博士の開発した術式による心臓移植です。昨年には、ブタの心臓を移植されたヒヒが1年以上生き延びたという記事が世間の注目を浴びました(http://www.telegraph.co.uk/news/science/science-news/10793958/Pig-hearts-could-be-transplanted-into-humans-after-baboon-success.html)。ヒヒの次は、いよいよヒトだということで移植医・研究者たちの機運は盛り上がっています。

移植医療の発展は生命倫理とつき合わせて考えていかなければならない医療技術でもあるでしょう。われわれ自身、治療の選択肢の一つとして深刻に考慮しなければならない状況に直面するかもしれません。さあ、みなさんは、臓器移植・臓器提供・またヒト以外からの細胞・組織・臓器提供を受ける異種移植、どのように考えますか?


2015/10/12

愛し野塾 第44回 臨床研究に内在する危機と正しさを追求する使命

赤ちゃんの網膜の血管は妊娠第36週頃までに完成するといわれています。それよりも早く生まれた未熟児では、血管形成が正常な分化を遂げず、枝分かれする等、異常を認めることがあります。特に、妊娠28週未満で生まれた場合には、網膜の血管分化異常が顕著に出現し、ほぼ全例に未熟児網膜症を発症することが報告されています。なかには、網膜剥離を経て失明する症例も認められます(日本小児眼科学会ホームページ http://www.japo-web.jp/info_ippan_page.php?id=page14 2015/10/12閲覧)。
1950年代の研究から、未熟児誕生後の保育器内での高濃度酸素投与が、未発達の網膜動脈の攣縮を引き起こし、結果として未熟児網膜症の発症リスクが増大することが知られるようになりました。1960年代には、未熟児網膜症発症リスクを抑制するために、酸素濃度を低くおさえすぎて、今度は、1人の失明を予防するために、新生児が16人のいのちが犠牲となってしまうという結果が算出されました。その後、しばらくして2001年のイギリスのコホート研究(Arch Dis Child Fetal Neonatal Ed. 2001 Mar; 84(2): F106–F110.)から、血中酸素飽和度が88−98%の場合には、網膜症発症は、27.2%に生じ、70-90%未満の場合は、発症レベルが6.2%にまで減少すること、かつ、両群の死亡率は同程度であるという統計結果が報告されました。この英国の研究結果を踏まえて、米国小児学会は、「未熟児への酸素投与に際して酸素飽和度が85-95%になるように治療をするべきである」、というガイドライン(指針)が示されたのでした。
しかしながら、このガイドラインもデータの妥当性・信頼性の観点から十分な科学的根拠に基づいて作成されたとはいえず、「凡そその程度が望ましい」、という推測の範疇をでておらず、「網膜症のリスクを最低限にする適正な酸素飽和濃度の真の値」については、医師も患者の家族も渇望していたのです。言い換えれば、最適な濃度を設定するための「前向きの無作為試験」が待ち望まれてきました。
このような背景のもと、この重要な課題に取り組んだのが「サポート研究;SUPPORT study (the Surfactant, Positive Pressure, and Oxygenation Randomized Trialの頭文字)」と呼ばれる臨床試験でした。これは、米国アラバマ大学のカルロ医師の率いる国際チームによって組織され、2005年から開始され、2010年に医学誌の最高峰であるニューイングランドジャーナルオブメディシンに発表されました(N Engl J Med 2010; 362:1959-1969, May 27, 2010
この研究では、24週から28週未満で生まれた超未熟児1316人を対象とし、酸素飽和度を「85%89%に設定する群」(低い酸素群)と「91-95%にする群」(高い酸素群)に無作為に振り分けられました。アウトカムは「重症網膜症」と「死亡」としました。予想どおり、低い酸素群は、高い酸素群に比べて、48%の網膜症のリスク低減効果が認められました(P<0.001)。ところが、予想に反して、低い酸素群は、高い酸素群に比較して、27%という非常に高い死亡リスクを認めました(P=0.04)。つまり「2例の重症網膜症発症を阻止するには、1例の死亡犠牲者が出る」という想定外の惨い結論となったのです。
この研究を境に、未熟児の酸素飽和濃度は、生命重視した場合、「91−95%」に設定することは、理論的根拠が得られ、また、医師も患者の家族も、新生児にたいして、「重症網膜症」と「死亡」との関係で、納得のいく治療を施せるになったことから、未熟児の臨床に与えたインパクトは極めて大きいものでした。同時期に、イギリス、オーストラリアを中心に行われた「BOOST II」研究でも同様の結果がえられました。
ところが、<85%89%>に酸素飽和濃度を設定した場合、死亡リスクが跳ね上がるという結論が、その後、まったく予期しない場所で勃発した「糾弾」に始まり患者家族による「訴訟」にいたる大きな社会問題に発展し、医療研究関係者の「臨床研究」の意欲をそいでしまいかねない事態となりました。
2013年3月、米国被験者保護局が、家族への説明文(インフォームドコンセント)の中に「理論的に予見しうるリスクの記述が欠けていた」とし、説明文の訂正を求めたのです。言い換えると、「酸素飽和濃度を低めに設定した場合、死亡率があがるかもしれない」ということをあらかじめ説明するべきだったというのです。もちろん、予見し得なかった理由は、前述した臨床研究の歴史的背景から明確であり、「結果をみて、その結論があまりにも重大だったため、当局が腰を抜かした」のが実情でした。しかし、その「当局の動揺」はあろうことか「臨床研究者らへの糾弾」に転じ、研究者の名声を穢しただけでなく「重要な臨床問題に焦点を当て、治療のあり方の改善を目的とする臨床研究」を失速させるような事態に発展したのです。
医学の諸問題に精通し、公平な判断を何よりも重んじ、学術界の人望も厚いことで知られる医学誌ニューイングランドジャーナルオブメディシン主幹のドラッツェン博士は、毅然と「サポート研究は、医学の進歩をもたらすモデルケースであり、被験者保護局の糾弾は唾棄すべきものだ」と主張しました(N Engl J Med 2013; 368:1929-1931, May 16, 2013このドラッツェン博士の論調をはじめとする、様々な反論に圧倒されたのでしょう、その後米国被験者保護局は、同年6月「説明文の訂正要求を保留とする」と回答したのでした。
しかし、患者家族は、黙ってはいませんでした。米国被験者保護局の最初の要求内容に触発されたのでしょう、研究者らを相手に「訴訟」を起こすという前代未聞の状況に発展し、さらに皮肉なことに、米国被験者保護局もまた訴訟の対象となりました。原告3人のうち2人は、「低酸素群」に、1人は、「高酸素群」に割り当てられたかたの家族でした。3人の新生児は死亡には至らなかったものの、残念なことに、2人には、神経障害が残り、1人は、網膜症を発症しました。原告らの主張は、「サポート研究に参加したことが原因で、後遺症が残った」というものでした。
アラバマ北部地方裁判所宛のこの訴状は、ボーダー判事の手により、2015年8月13日、門前払いとなりました。判事は、「原告は、超未熟児であり、早産の合併症として網膜症と神経障害をきたすリスクは極めて高かったと考えられる。サポート研究に参加したことが原因となって不利益を被った、とするには根拠が乏しい。」との判断を下しました。結果的には、サポート研究は「最も高いレベルの研究倫理規定」に基づき試行されていたことが確認されました。そして、現行の「臨床研究」遂行の手順の正しさがあらためて法的に確保されたのでした。
ボーダー判事による裁断は、「新生児、親御さん、そして、日常臨床にたずさわるすべての人の勝利」とドラッツェン博士は述べています(N Engl J Med 2015; 373:1469-1470 October 8, 2015, http://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMe1511158米国被験者保護局は、研究者およびリサーチに携わる全てのひとに謝罪をするべき、としています。
また、一般大衆のとった態度、すなわち、誤った情報をもとに、情報を精査することなく研究者批判のキャンペーンを張り続けたという事実についても言及し、「大衆心理」の恐ろしさを批判するとともに、過去にもあった心不全治療のケースを取り上げ、「大衆心理」に負けていれば、いまだに「ヒルと瀉血」治療がおこなわれていただろうと揶揄しています。