2016/10/05

第90回 愛し野塾 精密医療の光と影

「精密医療」の光と影

(文献1)
医療の現場が求める、そして医療の現場に求められる理想とは、一体どんなものでしょう?それは、まさに「個人の病像にあわせた治療の実現」ではないでしょうか。なかでも「がん治療」については、発病した「がん」の特性が、人それぞれ異なるものですから、その特性に見合った「個別の治療計画をする必要」があります。そのためにはゲノム医療、プレシジョン・メディシンと呼ばれる「精密医療」を用いて、個々のがんの詳細の診断が、有効かつ必要であるだろうと信じられてきました。実際、多くの抗がん剤が開発されてきた一方で、肺がんなどは、典型的な抗がん治療の効果が有効でないことも多く 、「肺がん」と一口にいっても、それぞれの患者さんに発病した肺がんの遺伝子レベルの微細な違いによって、治療効果に差が生じてしまうのだろう、と考えられています。こうした背景からも、それぞれの肺がんの原因となっている異常、もっと詳細にいえば、「遺伝子の異常」をターゲットとした治療方法が必要とされる、とあらゆる分野で言われるようになってきました。既に、がんの遺伝子異常をくまなく調べる「がんゲノムプロジェクト」によって、がんの遺伝子異常の詳細が判明し、どの遺伝子の異常がおきれば、細胞はがん化するのか、ということがよくわかるようになりました。また遺伝子異常に焦点を絞った治療がおこなえる環境が整備され、乳がんでは、HER2に対する「ハーセプチン」、悪性黒色腫では、BRAF遺伝子に対する「ゼルボラフ」が開発され、標準治療として使われるようになりました。がんの根本原因である「遺伝子の異常」を標的とした治療法が確立しつつあるわけですから、まさしく、「精密医療時代の到来」とさらなる期待が膨らんでいるのも無理からぬところです。米国大統領オバマ氏の肝いりで始まった、「がんムーンショット•イニシャティブ」では、2016年度単年で215億円が投資されました。

しかし、「精密医療の実現」を促した政策によってどれだけの効果があったのか、検証をしていくうちに、かつての期待とは裏腹に、数々の疑問が呈されてきたのです。

「精密医療研究」の評価が低い理由には、
第一に、ある遺伝子の異常がわかったとしても、その機能を完全に抑制できる薬剤の開発は容易ではないこと、もしくは、その効果は、限定的であること。
第二に、治療効果の増強のために、薬を組み合わせることが求められるものの、開発された薬剤を併用するには、毒性が強すぎて使えないケースが多いこと、が挙げられています。これまで144本の臨床試験で、95種類の薬剤の組み合わせが試みられましたが、単一の薬剤で使用適正とされる十分量 で組み合わせられるケースは、わずか50%しかないことがわかっています。 がん細胞を増殖させる「異常を来たした遺伝子」は、正常細胞でも、重要な働きをしていることが多く、開発された薬剤の併用によってターゲットされた異常な遺伝子の機能が、完全に遮断されたとしても、 「正常な遺伝子」の機能をも遮断してしまうため生じた新たな毒性が生体を攻撃する可能性があるのです。例外的に、乳がんで使用されるアロマターゼ阻害剤は、「単剤で」完全に標的分子の機能を抑制することができるため、臨床効果を表しやすいとされます。
第三の理由として、単一の薬剤で、がん細胞の増殖を抑制しようとしても、がんは、その標的遺伝子に別の遺伝子変異を生じさせたり、その標的遺伝子が絡むシグナル経路を増強したり、別のシグナル経路を活性化することで、薬剤耐性を容易に獲得する性質を持っているところにあります。

ことさら深刻なのは 「がん組織の不均一性」という性質です。
同一人物の腫瘍組織からのがん細胞の生検においても、採取時間が異なる二つのサンプルのがんゲノムには大きな違いが認められますし、同様に、同一個人の原発巣と転移巣の間にも、ゲノムに違いが生じるのです。最初に体内に生じたがん細胞は、その初期から、系統樹のごとく枝分かれするように分化しながら、多様な異なるゲノムを獲得した結果、腫瘍組織を構成するがん細胞集団が「不均一な状態となる」と考えられています。偶然、生検したがん細胞を特異的に攻撃する薬剤を使用しても、その他の大多数の異なるがんが残存し得るのですから、治療効果が出にくいことは、説明がつくところでしょう。
また、パッセンジャー遺伝子の大多数の遺伝子異常では、がん細胞増殖・生存とは無関係のため、「がんの増殖や生存」に関係のある「ドライバー遺伝子をターゲットにする必要がある」点も根治の障壁となっているのです。多数のがん組織を綿密に調査し、ターゲットとするべきがん遺伝子をピックアップすることが治療成功の秘訣となるため、頻回な腫瘍組織の生検が必要となります。この手法を回避する解決策の一つとして、血液中に浮遊するがん細胞を調べる方法が期待されたこともありましたが 、いざ調査してみると、既に死んだがん細胞由来のものが混じっていて実用に至らず、目的とする、がん組織を形成する「生きている」細胞を見分けることが難しいという技術的問題に行き当たってしまいました。結局、多くの開発薬剤のうち、そのわずか10分の1以下しかフェーズ1臨床試験に到達できないのが現状なのです。精密医療が成功する鍵は、「ドライバー遺伝子がすべての不均一な細胞に存在すること」あるいは、「不均一性をもたらす遺伝子変異をターゲットとすること」と考えられています。
「慢性骨髄性白血病」では、BCRABLのトランスロケーションが極めて多数の患者に認められるなど、前述の条件を満たし、「イマチニブ」治療が成功した、と解釈されています 。冒頭に取り上げた「ハーセプチン」や、「ゼブロラブ」も顕著な効果をもたらす治療方法として汎用されているのですが、実は、こうした事例は、極めて希なことなのです。そして、こうした数少ない成功例ですら、抗がん剤の使用を続けていると、がんは、別な遺伝子変異を獲得し、薬剤耐性を示すことがあるのです。「がん細胞の表面に存在する共通マーカーを利用した免疫療法」が新たな治療法として注目されています。その目玉とされる新規薬剤「オプジーボ」の有効率は、それでも、20%前後とされ、治療効果をもたらす「がん」とそうでない「がん」を見極めることは容易ではありません。
コスト面でも問題があります。「イマチニブ」と「ゼボラス」は、高額な薬剤とはいえ、費用対効果の点からなんとか受け入れ可能な範囲でしょう。しかし、「オプジーボ」は、一人当たり、年間治療費が3500万円かかることが算定されており、加えて治療効果が持続する限り継続使用が原則、であることから、国家財政への負担は言うまでもありません。精密医療は高額であることは、議論する余地もなく、他の様々な病気の治療法の開発費を圧迫しているのが現状です。
「精密医療」は、選択的治療法の有効性という点でも議論に上がっているところです (文献2)。つい先頃、乳がんの遺伝子を調べて、その遺伝子の状況により、ハイリスク群と低リスク群に分類し、それによって治療法を選択するという新しい臨床試験の成績が発表になりました。年齢、病理所見などをもとにした、「従来の臨床的病期分類」と、「遺伝子の異常にともなうゲノム病期分類」とを比較して、どちらがより生存率に影響をもたらすかを調査検討が行われました。結果は、とてもグレーなものでした。
病期分類が、臨床的にハイリスクとされ、遺伝子的には、低リスクとされたひとたちで、抗がん剤を選択しないと、選択した場合と比べて、平均1.5%の遠隔転移のない生存率低下を認めたものの、そこには統計学的有意差がなかったのです。「臨床病期分類ではなく、ゲノム病期分類を主たるものとして治療を行うには、精密医療は十分に成熟していない」、と現状では結論すべきだ、と専門家らは見解を示しているところです。
「精密医療」の謳う「理想の高さ」は、すべての人の心をとらえる力があります。圧倒的多くの研究者がこの傾向に疑問を持たず、「精密医療」の確立に向け汗を流し、また政府は金をだすことでこれを後押しし、製薬会社はGOLDマインと飛びついています。一縷の望みをかけて、高額な治療、検査もいたしかたないと患者も家族もうけいれます。しかし、いまだ「精密医療」の現状は、周到に計画された臨床研究においてのみでしか、有効な結果を見ていないことについて、一般市民にはあまり知らされていません。
「精密医療に突っ走る現代の医療環境の危険性」を認識しているかたは、まだ少数派です。正しい事実をいまこそとらえるべき時がきた、と思います。「限られた医療資源」をどこに振り分けるのか、国民的議論が必要と思います。

参考文献