2015/10/12

愛し野塾 第43回 「薬価」の経済的観点からの考察

薬価の経済的側面からの考察
悪玉コレステロール(以下、LDL-CHOL)は、血管に蓄積することで血管内皮にダメージを与え、血管は肥厚し、弾力性を失い「動脈硬化」の原因となります。動脈硬化によって血管の内径は狭窄し、下流組織への酸素供給が減少・遮断し、結果として、狭心症、心筋梗塞、脳卒中発症原因となります。したがって、「LDL-CHOLの血中濃度を適正に維持する」ことは、こうした病気の発症リスクを低減させるために、重要なポイントになるというわけです。

さて、2015年6月、米国で、悪玉コレステロールを低下させる新規の注射薬剤が承認されました。「アリロクマブ」と「エボロクマブ」と称する2種類のお薬です。これまでLDL-CHOLを低下させる薬といえば、「スタチン」と呼ばれる飲み薬がその代表格でした。このスタチンの効果は、大規模臨床試験の結果によって、男性では、心血管病予防すること、女性では、すでに動脈硬化がある場合には心血管病予防に有効であること、が認められてきました。死亡リスクの高い「心血管病の予防が可能なお薬」ということで、大変重宝され、臨床現場で汎用されてきました。

一方で、スタチンは、筋肉痛・横紋筋融解症など、比較的強い「副作用」を呈するかたや血中のLDL-CHOLの数値が目標値まで下がらないかたが少なくなく、患者も医療者も頭を悩ますといった状況が長く続いており、LDL-CHOL値を安全に低下させることができる薬の登場が期待されてきました。

今回紹介する、米国で承認された新薬は、<PCSK-9阻害剤>と呼ばれ、肝細胞のLDL受容体の分解を阻害し、それに代わって同受容体の膜表面への再循環を促進する働きがあります。そのため、LDL受容体を介したLDL-CHOL除去が亢進し、結果としてLDL-CHOLの血中濃度が低下するといったメカニズムです。既に、この<PCSK-9の機能を欠失させる遺伝子異常のあるヒトの低い心血管病発症率>が知られていましたし、逆に、<PCSK-9の機能を亢進させる遺伝子変異をもつヒトの高い心血管病発症率>こともわかっていました。こうした基礎的バックグラウンドによって、「PCSK−9阻害剤は、LDL-CHOLを低下させ、心血管病を予防する」という仮説が成り立ち、大きな期待のもとこの性質を有した薬剤開発がすすめられてきました。

承認された2つの薬は、実臨床のもとで「心血管病」を予防できるのか否かは、現在進行中の大規模臨床試験の結果を待つことになりますが、薬の「効力」は顕著であり、LDL-コレステロールを25mg/dl以下と超低値になるかたは、エボルロクマブで37%、アリロクマブで24%にものぼることが報告されています。こうした強力な薬理作用と、副作用報告がないこと、前述の遺伝病の基礎医学的観点からの検証で心血管病の発症、予防と密接な関係があることが明確であるとされ、臨床試験による心血管病「予防」の検証データはないものの、予防することはほぼ間違いないだろう、とのつよい期待から承認されました。

しかし、これまでには、血中のLDL-CHOL値を顕著に低下させたとしても、心血管病の予防効果が認められなかったケース、それどころか、むしろ、心血管病リスクを上昇させる薬の例が存在し、PSK−9阻害剤をこの段階で新薬として承認したことの是非について議論がヒートアップしています。

時をさかのぼれば、2007年、「トルセトラピブ」と呼ばれる薬剤は、LDL-CHOL27%低下する作用を有していたものの、「心血管病」のリスクを25%有意(P0.001)に上昇させたことが報告されています(November 22, 2007Barter P.J., Caulfield M., Eriksson M., et al.N Engl J Med 2007; 357:2109-2122)。仮に「トルセトラピブ」が、LDL-CHOLを低下させる顕著な効果によって、薬として認可され、市場に出回っていたならば、多くのかたが心血管病の犠牲になっていたと考えられています。この事例を引用しても「LDL-CHOLの顕著な低下作用の認定のみで<PCSK-9阻害剤>を薬として認可するには時期尚早であろう」とする意見に賛同できますし、「心血管病リスクの上昇させる重大なリスク」については、私も大いに懸念を持つところです。

米国食品衛生局(FDA)のメンバーで、認可賛成に回った先生たちの間では、「この薬の値段が常軌を逸している(1年のコストが175万円=14600ドル!かかる)こと、痛みを伴う注射剤であること」で、経済的観点からも、治療方法の観点から鑑みても、医師も患者も、使用頻度が少なくなると見積もられ、心血管病リスクを増大させることはないなどと、極めて乱暴な論調でコメントを出しています(October 7, 2015Everett B.M.Smith R.J.Hiatt W.R.10.1056/NEJMp1508120)。

そもそも、この段階で、承認するべきだったのかは、多いに疑問が残るところですが、Balu博士らのように、より少数の病態を対象(例えば、家族性高コレステロール血症)として適用を絞って、承認するという方法もあったのではないか、(October 7, 2015Schulman K.A.Balu S.Reed S.D.10.1056/NEJMp1509863)と批判的な論調もあるようです。今回の治療の対象となるのは「動脈硬化性の心血管病を有しているLDL−コレステロールをさらに低下させる必要のあるかた」とされ、事実、対象者は膨大であることが推測されるからです。

なかでも、薬の値段<薬価>という問題は、上述した議論に拍車をかけた理由のひとつでしょう。お薬の値段のつけかたが、この業界特有の市場にいくら高くても受け入れられる「青天井」の考え方が支配的に存在することを暗示しています。消費者側、すなわち患者さんが、「命にはかえられない、値段はともかくいい薬なら受け入れるという、ロスアバージョン(損失嫌悪:現在有するものを損失することへの過敏な嫌悪感による偏見的考え方)を持っていること」に起因しているのです。さらに、「ジェネリック」医薬品の導入もまた一因といえるでしょう。

国内でも、2017年までに、ジェネリック医薬品をシェアの80%とする骨太方針が決定されていますが、海の向こうの米国では、すでに「84%」とかなり高い水準に至っています。製薬メーカーは自社開発品が、ジェネリックに置き換えられることで、これまであげてきた製薬による利益を維持することが難しく、収益が圧迫されてきています。こうなれば当然、新規薬剤開発への注力が必須となり、「新薬」開発の暁には、「途方もない値段」がつけられるというわけです。ジェネリック導入によって目先の出費を抑えるでしょう。しかし、長期的視野に立てば、市民の負担は上がる可能性は否めません。

昨今、医学界で話題のC型肝炎ウイルスの特効薬「ソバルディ」の場合、日本は12週間分の総治療費が500万円ほどになります。日本で、この薬の対象になる30万人いると推定され、この治療のために、1.5兆円が必要となります。日本の1年の医療費40兆円のうちの約4%を占めると算出されます。PSK-9阻害剤が国内で承認されれば、適応となる患者数は、100万人を超えることは間違いないところでしょう。全員に投与されることはないにしても、医療費圧迫に影響することは間違いなさそうです。


「ジェネリック」医薬品の推進ばかりが目につきますが、これが短期的にも長期的にも正しい医療政策なのか、「薬価」の問題については視野を拡大して立ち止まって考えるべき頃だと思います。私自身、医薬品として認可する過程への市民オンブズマンの監視が必要ではないかと思う所以です。

2015/10/10

愛し野塾 第42回 「腱」由来幹細胞から「腱再生」に挑戦する


アキレス腱の断裂は、痛み(個人差はあります)と身体の不自由をもたらす病気です。激しいスポーツ活動を行う運動選手だけではなく、30歳から50歳の方に障害の頻度が高く、運動習慣を持たない中高年の方が、週末や休日だけスポーツ活動に参加し、跳躍や体重をかけた踏み込み動作などに伴った急激なふくらはぎの筋肉の伸展にアキレス腱が耐えかねて、「ブチッ」と断裂に至るケースが頻繁なことからweekend warriors(週末戦士病)などとも揶揄されている障害です。

さてアキレス腱断裂の治療は、保存療法と手術の大きく二つに分かれます。保存治療では、ギブスや装具で固定することになりますが、手術によって生じる痛みはないとはいえ、長期間の回復時間を要しますし、治療後の再断裂率(再発)が高いという欠点があります。一方、手術治療は、成功率は高いとはいえ、数%には再断裂が生じますし、術後の固定を必要とし、ケースによっては術創の治りが悪く神経痛を訴える症例も少なくありません。なにより断裂した腱が元通りの力強さを蘇らせ、回復後も断裂しにくくなってくれたのならば、これほどいいことはありません。しかし、現在の治療法では一定の限界があることは認めざるを得ません。

さて、新しい治療法として、幹細胞を使って組織を修復することで、損傷を受けた腱を根本的に治癒させることを目的とした治療研究が俎上に乗ってきています。

様々な種類の細胞に分化できる潜在性のある「幹細胞」は、再生医療の分野で注目を浴びてきました。骨髄や臍帯血から採取された幹細胞は、その後、培養され、サイトカインや成長因子などの増殖・分化誘導因子による刺激を与えられることで、目的とする細胞に分化し、損傷した組織にもどされます。腱の修復にも、幹細胞が注目され、実験に供されてきましたが、残念ながら良い結果は未だ得られていません。腱以外の部位の細胞を使っても、腱特有の細胞環境に馴染めず、腱の修復には至らなかったこと不成功の原因としてあげられています。

今回コロンビア大学のリー博士らは、腱に存在する幹細胞を用いて実験を再施行し、見事に腱の断裂を修復することに成功しましたのでご紹介したいと思います。

 

Lee, C. H., Lee, F. Y., Tarafder, S., Kao, K., Jun, Y., Yang, G., & Mao, J. J. (2015). Harnessing endogenous stem/progenitor cells for tendon regeneration. The Journal of clinical investigation, 125(7), 2690. 

腱とは、「骨」と「筋肉」を結ぶ、コラーゲン豊富な結合組織でできた「支持体」です。筋の収縮・伸展する力を骨に伝える作用を持っています。一度断裂した腱は自然に元に戻ることはなく、修復しても正常腱組織ではなく瘢痕組織となり、細胞成分が過度に増殖したり、さらに腱に対し縦に並んでいるコラーゲンが不揃いに形成されたりすることで腱本来の持つ構造上の強度を取り戻せず、十分に機能を回復させることは難しいとされています。腱を構成する成分のうち腱の体積の5%を細胞成分が占め、細胞成分のうち1%未満という微量の細胞が、「幹細胞」です。この非常に少ない腱の幹細胞を培養すると、腱細胞に分化し、腱組織を形成します。

本研究は、この腱幹細胞を効率よく純度よく採集する方法の確立から検討が行われました。腱幹細胞に特異的に発現している細胞表面マーカーであるCD146抗原発現細胞を標的として、セルソーターによって標的細胞である腱幹細胞を分離しました。分離採集された腱幹細胞は、結合組織増殖因子(CTGF)を添加され、採集細胞数の20倍に増殖させるだけではなく、CTGFを持続添加することによって、腱幹細胞はその表現型(CD146抗原+)を2週間維持されることが確認されました。ただしCTGFが欠失すれば増殖された幹細胞の表現系(CD146抗原+)もまた消失することが確認されています。

その後、培養皿上のフィブリンゲル(細胞の生存および増殖に有用な培地として医療利用されているゲル)にCTGFを添加した培地上で、採集された腱幹細胞を暴露すると、細胞内FAK/ERK1/2のシグナル伝達経路が活性化し、正常の個体同様に、コラーゲンの結合組織を形成する腱細胞に分化することが確認されました。こうして、この「腱幹細胞・分離―培養システムの確立」によって、生体内での腱組織再生への効果が期待されました。

そこでリー博士らは、10万個の腱幹細胞+フィブリンゲル+CTGFを、ラットの膝蓋骨の腱内に埋入実験を行いました。

結果は、仮説どおり、移植後2週間で、断裂した腱の部位に、断裂前の腱と同様にコラーゲン結合組織の形成が確認され、1)構造上の問題を乗り越えることに成功しました。さらに2)断裂前とほぼ同じ強度を取り戻し機能的な回復を示唆する結果が得られました。

率直な印象として、成功の秘訣は、ラットの膝蓋骨から腱の細胞を分離し培養皿で増殖させましたが、コロニーを形成する能力が、「幹細胞では非幹細胞の70倍あった」ということが純度よく腱幹細胞を採集できたおおきな要因だろうと思いました。

アキレス腱損傷は、様々なスポーツのトップ選手らの選手生命を脅かす深刻な「スポーツ傷害」というだけではなく、生涯スポーツの観点からも、その回復は、個々人の生活の質にも大きく影響するものです。このアキレス腱の再生治療法が、早期に臨床応用されることが求められてきました。リー博士らの研究はそれを実現するための大きな一歩となったわけであう。ただしヒトに臨床応用するとなると次のようなクリアすべき様々な問題が挙げられます。

  1. ヒトの腱組織から採集し得る、腱幹細胞の数を明らかにすること。
  2. ヒトアキレス腱の断裂修復に十分な細胞数を明確にすること。
  3. ラットの培養実験同様に、ヒト腱幹細胞が順調に増やせるのか?もしくは、増殖条件の検討の必要性の有無。
  4. 幹細胞実験が長期に及ぶことで癌細胞増殖の懸念の払拭。
  5. 現在の治療法と比較して治療成績(運動機能・腱構造・腱強度など)の改善が認められるのか。

臨床応用のためには、こうしたいくつかのハードルを厳格な評価の下、乗り越えなければなりません。しかし、腱のような「硬い」「特殊な組織」で、その「組織に存在する幹細胞」を用いて、再生医療に供するといった新規性の高い発想をもとに、腱断裂の修復に成功したことは、動物実験とはいえ、大きな飛躍に違いありません。今後の検討が期待されます。

2015/10/06

愛し野塾 第41回 アルツハイマー病は、伝染するのか?!


亡くなった人の体から採取した「ヒト成長ホルモン」による治療を受けた後に、クロイツフェルト・ヤコブ病(CJDを発症されたかたが、発症と同時に、アルツハイマー病に酷似する病態を呈していたことが明らかにされ、アルツハイマー病も、CJDと同じく、伝染する病気ではないか?という懸念が急速に広がっています。 

Jaunmuktane, Zane, et al. "Evidence for human transmission of amyloid-[bgr] pathology and cerebral amyloid angiopathy." Nature 525.7568 (2015): 247-250.

 

1990年代、英国で発症したCJDの患者さんは、10代、ティーンネイジャーでした。さらに、引き続いた10代、20代というあまりにも若い世代の発症、死亡報道には、イギリスだけではなく世界を震撼させました。発症は欧州だけではなく、英国滞在歴のある欧州以外の方にも認められ、牛の海綿状脳症(一般的には狂牛病と呼ばれています)との因果関係が指摘されてきました。1985年から大流行した狂牛病に感染した牛の肉を食べたことで、CJDを発症したのでは?と考えられたのです。あの当時はイギリスを訪れたときには、牛肉が入っている料理かどうか、食べるべきかどうか、悩んだものでした(実際、私もその当時の渡航歴により今も献血はできません)。北海道でも、狂牛病流行は「あってはならない事態」として認識され厳しくスクリーニングされています。 

さて、今回雑誌Nature報告されたケースでは、お亡くなりになった方の臓器から採取された「成長ホルモン」を治療に利用した方が、CJDに発症したことから、詳細の調査をしたところ、その原因成分の夾雑を認め、さらに精密な分析をしたところアルツハイマー病にも罹患していた可能性を研究報告しています。 

1960年代から70年代にかけて、CJDは、発症数こそ少ないものの、脳神経の変性をきたし、行動異常、認知症等を経て、死に至るという不治の病として知られ、臓器移植や血液を介し、ヒトからヒトに伝染することが報告されていました。その当時から、神経変性を起こす他の病気のなかに、伝染性を有する病気の存在があるのではないか?と、研究者間では密かにささやかれてきました。今回、国際的に権威ある医学誌「ネイチャー」に、「ヒトからヒトへ、アルツハイマー病に酷似する病理像を呈する疾患が伝染した」という報告がなされ、戦々恐々の事態となりました。感染源は前述しましたように、死後、ヒトから採取した下垂体の抽出物である、成長ホルモンのようです。 

1985年まで、成長ホルモン分泌不全性低身長症(最近まで下垂体性小人症と呼称)のこどもたちには、注射による成長ホルモン治療が行われてきました。おおよそ30000人が人体由来の成長ホルモンを注射されたようです。下垂体は大変小さな臓器ですから、治療に十分な量の成長ホルモンを得るためには、何千もの下垂体を集めて、粉砕し、成長ホルモンを抽出・精製していました。そのプロセスで夾雑したと考えられる異常蛋白「プリオン」が、CJD病発症の原因となりました

かつて注射治療を受けた成長ホルモン分泌不全性低身長症のこどもたちの中で、約5年から40年もの長期の潜伏期間を経て発症すること、かつ発症率が6.3%と低いことから、「発症したCJD」と「注射剤」の関係は、長い間、繋がりませんでした。現在では、CJD原因物質が「プリオン」と呼ばれるたんぱく質であることがわかっています。「プリオン」は正常なヒトに存在するたんぱく質ですが、病気を起こす変異体のプリオンは、正常型と接触することで、正常型を病原型に変えてしまい、脳内にこの異常プリオン蛋白が異常蓄積することが原因となって神経の変性をもたらします。この病気は種を超えて伝播します。もともとは、「スクレピー」(羊のクロイツフェルト・ヤコブ病(CJD)に罹患していた羊の肉を、牛に与えたことから「狂牛病」が発生しました。そして「狂牛病」に感染した牛の肉を食べると人間がCJDとなるというわけです。感染性をもち、病気を起こす型である「病原型」蛋白は、構造的に「折りたたみ異常(ミスフォールディング)」があり、タンパク質同士が凝集し、脳内に蓄積してしまいます。

蛋白の異常凝集が病気の原因になっている別な病態といえば、代表的なものが、「アルツハイマー病」です。アルツハイマー病では、「アミロイドベータ(蛋白」と呼ばれる40アミノ酸程度のペプチドの脳内での集合化およびアミロイド線維形成が生じ、アルツハイマー脳特有の所見である「老人斑」として観察されます。この異常蛋白の凝集は、アルツハイマー病の発症の数十年も前から、生じることが既にわかっています。ミスフォールディングを起こした蛋白を、「シード(種)」と呼びます。少量のシードを動物に注射すると、脳内でのの凝集を認めています(動物モデル)。こういったバックグラウンドから、CJDのプリオンと非常に似通ったメカニズムで、の沈着が生じる可能性が指摘されてきました。今回発表された論文報告は、ヒトの病理像の仔細な観察から、この「シード」仮説を支持するものとなりました

この研究では、30年ほど前に死体由来の成長ホルモンによって注射治療を受けた、36-51歳のCJDで死亡した8人の患者さんの剖検例を対象としています。

8人中4人に、脳の広範囲での」の沈着が認められ、別の2人には、まばらに「の沈着が確認されました。アルツハイマー病は、高齢のかたに生じる認知症疾患で、本研究の36-51歳という若い年齢層で沈着が認められることは極めてまれです。また、CJDの死亡例のうち、遺体由来の成長ホルモン治療歴がないケースでは、さらに10歳以上高齢な方であっても、「」の沈着は認められませんでした。若くしてアルツハイマー病になる、「若年性」タイプは、遺伝性であることが知られていますが、研究対象者には、遺伝性の異常は認められませんでした。
 
また、今回の研究では、アルツハイマー病の患者さんの下垂体に、「」の沈着があることも証明され、死体由来の成長ホルモンに「」のシードが含まれていた可能性が高いことも示しています。動物実験では、すでに、マウスを使って、腹腔内に、「」のシードを注射すると、脳の血管に「」沈着が認められることが知られています。ですから、死体由来の成長ホルモンに含まれていたと思われる「」が脳以外の部位に投与されたとしても、脳内に「」が沈着する可能性は多いにあり得るということになります。 

しかしながら、この研究報告について、いくつかのドローバック(欠点)について考えなければなりません。

  1. 死体由来の成長ホルモンに本当に「」のシードが混入していたのかどうか。これが証明されておらず、論文の結論が「憶測」の域を出ていないと考えられます。 
  2. アルツハイマー病に特徴的なもう一つの病理像である「タウノパチー」が見られないのはなぜなのか。 
  3. クロイツフェルト・ヤコブ病(CJD)」を発症せず、アルツハイマー病のみを発症した症例がないのはなぜなのか。この点に関しては、2008年の研究段階では、死体由来成長ホルモン治療を受けた患者のアルツハイマー病発症リスクは、治療を受けていないかたと変わりない、とされていますが、より長期にわたる観察が必要な可能性は否定できません。同じ理由から、2)の内容ももう少し時間が経過しないとと「タウノパチー」を呈しないという可能性があります。

 さらに今後証明されなければならない点は、「クロイツフェルト・ヤコブ病(CJD)」が、「」の沈着を進めたのではないか?ということです。 

1985年以降、死体由来の成長ホルモンは使われることがなくなり、遺伝子操作によって作成された人工的なホルモンで治療されるようになりました。以来、CJDは出現しなくなりました。もしこの論文が指摘するように、仮に「アルツハイマー病」も伝染性の疾患だとしても、少なくとも「成長ホルモン注射」という経路でのヒトへの感染の可能性はなくなったことは朗報と言えるでしょう。

しかし、指摘された論文のドローバックが今後の研究によって解決し、この論文の示唆するアルツハイマー病の感染の可能性が証明されるのであれば、他経路からの「」シードの伝播の可能性について明確にし、治療される側の不利益にならないよう準備しなければならないでしょう。今後の議論が待たれるところです。 

2015/09/23

愛し野塾 第40回 長時間働くと脳卒中のリスクはあがるのか?


長時間働くと脳卒中のリスクはあがるのか?

長時間労働と心血管病リスクの因果関係については、実は、いまだ決着がついていません。2012年に2つのメタ解析を用いた論文が発表されました。長時間労働は、標準時間労働に比較して、心血管病リスクを40%も上げるという報告をしましたが、これら2つの論文については対象者についての問題点が挙げられています。

l  対象者のバイアス。心血管病があることを理由に労働時間を短縮していた労働者が多数含まれていて研究デザイン自体に問題がある。

l  社会経済的地位の格差のバイアス。長時間労働をする傾向のある社会経済的地位の高いひとのほうが、低いひとに比較して、心血管病が少ないとされている点から、社会経済的地位格差のバイアスを考慮していない研究デザインでは信頼性が低い。

また、心血管病リスクの中でも脳卒中リスクについては、ほとんど検討がないのも事実です。長時間労働がゆえに、運動ができない、労働環境下のストレスが多い、ことにより、冠動脈疾患だけでなく脳卒中も誘発しやすいことは、想定されることです。

今回の研究(Lancet. 2015 Aug 19. pii: S0140-6736(15)60295-1. doi: 10.1016/S0140-6736(15)60295-1. [Epub ahead of print] Long working hours and risk of coronary heart disease and stroke: a systematic review and meta-analysis of published and unpublished data for 603838 individuals.)では、これまで報告された前向き研究結果を、ひとりひとりのデータを解析し見直しています。また、未だ発表されていない研究成果も加えて解析しています。

持病によって軽減された労働時間がバイアスとならないよう極力除外するために、研究開始一年以内に生じた心血管発症イベントについては、採用しませんでした。また、データ解析時に社会経済的地位は階層化されました。すべてのデータは、脳卒中と冠動脈疾患のそれぞれについて解析されました。

労働時間と冠動脈疾患との関係を記した研究は、Pubmedサーチから、上記の条件設定をクリアした、25個の研究が選別されました。5本の発表論文結果と、20本の未発表結果です。労働時間と脳卒中の関係については、17個の研究(1本の発表論文結果と16本の未発表結果)が採用されました。

冠動脈疾患発症歴のない603838人の男女を、前向きに、平均8.5年観察しました。4768件の冠動脈疾患が生じました。病気の定義は、病院入院あるいは死亡の場合に得られた、国際病気分類であるICD-10をもとに記載された病名(コードは121122)、「偶発性冠動脈疾患」「非致死性心筋梗塞」「冠動脈死」となっています。バイアスの影響を避けるため年齢、性別、社会経済的地位で、データは補正されています。「長時間労働は、13%の冠動脈疾患を増加させる」という、変化をもたらすことがわかりました(P0.02)。

528908人の男女で、脳卒中発症歴のない人を、前向きに平均7.2年観察したところ、1722件の脳卒中が生じました。病気の定義は、病院入院あるいは死亡の場合に得られた、国際病気分類であるICD-10をもとに記載された病名(コードは160-164)、「脳卒中」となっています。バイアスの影響を避けるため年齢、性別、社会経済的地位で、データは補正されています。「長時間労働は、33%の脳卒中を増加させる」という有意な変化をもたらすことがわかりました(P0.002

労働時間と冠動脈疾患の発症、及び脳卒中発症との時間数依存性についても検討をしていますが、冠動脈疾患には、有意な時間数依存性が認められませんでしたが、脳卒中発症との関係に時間数依存性を認め、労働時間が長くなるほど脳卒中が増えるという結果が得られました(P0.0001)。

労働時間が36-40時間/週を標準時間としたときの脳卒中発症1.0とすると、

Ø  41-48時間では、1.10

Ø  49-54時間では、1.27

Ø  55時間以上では、1.33

社会経済的地位が低い階層では、長時間労働によって冠動脈疾患が2.18倍に増える(P0.006)ことも明確になりました。 

この研究は、長時間労働が、脳卒中を33%有意に増やすことを世界で始めて示したという点で注目されています。またこのデータは、性差、国、脳卒中の確認手法が異なるというバイアスにも影響されず、得られた結論は、信頼の高いレベルだと評価されるでしょう。未発表データが全体のデータの大半を占め、データの精査によって対象者のバイアスの問題が解決されており(ポジティブなデータが出る危険性を排除している)、データの妥当性は高いと考えられます。

主なデータが、論文になっていないものが圧倒的に多いことは興味深い点でしょう。すべてIPD-WORKコンソーシアムから得たものですが、便宜的標本であり、無作為に抽出されたわけではないので、データ抽出方法にはバイアスの危険性は残ります。また、勤務時間の聞き取り調査は1度だけしか行われておらず、観察期間を通して勤務時間に変化はなかったのか否かには疑問が残ります。さらに、データは、様々な交絡因子で補正されているものの、塩分摂取、コレステロール、血糖などの血液データは考慮されていないことから他の生活習慣リスクの影響は不明瞭です。仕事への取り組み方の違い、得意な部署での仕事か、楽しんでやっているのか、いやいやながらやっているのか、過度な責任を抱えているのか、などモチベーションの違い、劣悪な環境での労働なのかどうか、移動が多いかどうか、など労働環境も寄与している可能性があります。時間当たりの仕事量、その他、睡眠時間なども交絡因子となるでしょう。将来的にはこうしたバイアスにも対処した詳細の研究分析が行われることが、労働者の健康を考え、労災を予防する上では望ましいと考えられます。

さて、OECD加盟国の中で、最も勤務時間が長いのはトルコです。同国では、週50時間以上働く労働者は、全体の43%を占めます。最も少ないのは、オランダで週50時間以上働く労働者は、1%未満です。すべてのOECD加盟国では、男性の12%、女性の5%が週50時間以上勤務しています。労働時間規定によると、EU諸国では、週48時間以下とするという法令があり、今回の研究で、労働時間と脳卒中の関係が明らかになったことからも、EUの取り組みは適切な脳卒中予防策と評価されています。

未だ長時間労働による過労死認定される犠牲者が減らない国内の労働者環境については、事業主が適切な労働環境を提供できるよう、国としても事業主への雇用支援の改善を図っていただきたいものです。