ポンペイの風景
自然災害がメンタルヘルスに影響を与えることは既知の事実です。なかでも心的外傷後ストレス「PTSD (Post-Traumatic Stress Disorder)」は、純粋に直接的な外傷事態に因って当該者を苦しめる精神疾患です。この疾患は強烈なストレス体験で引き起こされるのですが、自然災害を経験したケースでは、数ヶ月ないしは数年という長い時間を経た後も、その経験に対して恐怖を再体験し、突然、災害時の状況が思い出され、強い不安状態や緊張状態を強いられることがあり、めまい、動悸、頭痛、不眠、あるいは心的麻痺、といった症状を伴うことがすくなくありません。
PTSDは、自然災害に直接遭遇したかたの30-40%に生じるとされ、災害に関わった救護隊員のうちの10-20%、また当該地域住民の5-10%程度の割合で症状が認められると報告されています。
PTSD症状の重症度は、多様な因子(社会人口学的因子・イベント暴露・社会的支援・性格特性等)に影響され、自然災害が生じた場合には、救護チームにカウンセラーも同行し、予測不能な災害によって生じた悲惨な状況を受けとめられず傷つけられている被災者に即座に対応する体勢づくりの重要性が注目されています。
自然災害に伴うメンタル疾患研究の重要性が増す一方、現実的にはその研究を成功させることは非常に困難でした。それには、5つの主な理由が考えられています。(1)自然災害遭遇前の精神疾患の状態把握が難しいこと、(2)疾患の性格上、観察期間が短くならざるをえないこと、(3)対象者の脱落率が高いこと、(4)対比するべき対照となる集団(コントロール群)を得るのが難しいこと、(5)対象者の主観に基づいた症状報告に頼り、専門の医療機関による診断に基づいた客観的データを得ることが困難であること、などです。本研究では、アーンバーグ博士らは、こうした問題について適切に対処し、新たな知見を得て、ランセットサイキアトリーに報告しました(Lancet Psychiatry July 23 2015)。
(引用:Arnberg, Filip K., et al. "Psychiatric disorders and suicide attempts in Swedish survivors of the 2004 southeast Asia tsunami: a 5 year matched cohort study."The Lancet Psychiatry (2015).
2004年スマトラ島沖地震で生じたインド洋津波では、10mに及ぶ津波が数回、最大の津波は34mとされるものが、インド洋に押し寄せました。M9.3とされる最大級の地震は、22万余人の命を奪い、被災者の総数は500万人にまで膨れ上がりました。554人のスウェーデン人が命を奪われ、未だ1800人以上が行方不明となっています。諸外国の中では、スウェーデン人の被害は最大とされています。
本研究では、この津波の被害を生き延びたスウェーデン人成人8762人と若年者3942人を対象とし、2004年12月26日から2010年1月31日までの5年間の観察研究が行われました。
国家管理下での患者登録記録を参照し、対象者の精神疾患罹患率を算出しました。年齢、性別、社会経済的地位レベルを対象者同レベルになるように抽出した津波非暴露(津波に遭わなかった)の対象群(864,088人の成人と320,828人の若年者)の精神疾患罹患率と比較検討しました。
津波暴露群(津波に曝されたグループ)は、成人で平均年齢42.1歳、若年者で、12.7歳でした。被災者の34%が年収の上位20%を占め、社会経済地位の高いかたが多いことがわかりました。得られた結果について、成人対象者は、津波暴露以前の精神疾患の罹患率で補正され、若年の対象者は、その親の津波暴露前の精神疾患の罹患率で補正しました。
津波暴露群の成人の精神疾患の罹患率は、6.2%(547人)と、比較的少ない数値でしたが、津波非暴露の成人に比較して、21%の罹患率の上昇を認めました。ストレス関連性疾患は2.27倍も増加し、特にPTSDは高く、非暴露者の7.51倍の罹患率という結果を得ました。一方、自殺企図は、1.54倍の増加にとどまり、気分障害や不安障害といった項目は、両群間に差を認めませんでした。
成人の場合、ストレス関連疾患は、津波暴露後1年以上経過した後も認められました。直接津波に遭遇した場合のPTSD罹病率は、14.6倍という高率を示し、津波に間接的に遭遇した場合のPTSD罹患率は、3.48倍と、統計的には間接暴露か直接暴露かで顕著に差を認めました。
若年者の場合は、津波暴露の有無は精神疾患の罹病率には影響を与えませんでしたが、暴露歴があるグループでは、「自殺企図」が1.43倍に増し、「ストレス関連疾患」が1.79倍になることがわかりました。特に高い罹病率は津波暴露された若年者のPTSDで、非暴露群の2.83倍に及びました。またこれらの罹病率増加の多くは津波暴露後3ヶ月以内に認められました。
この研究の特徴でもあり、かつ注目されるべき点は、津波暴露された成人対象者の多くは高い社会経済的地位に属し、津波暴露後早期のうちに非被災地域へ移り住んでいることから、被災地に居住した場合に受けると想定される被災後に生じる独特の生活上の不安やストレスの影響を受けておらず、「純粋に津波暴露に伴う影響」を検討することができたことです。同時に、津波暴露後に被災地に居住する際のストレスを回避出来た事が、気分障害や不安障害を来さなかった理由ではないか、と考察されています。
若年者の群は、気分障害、不安障害がむしろ津波暴露群の方が少ないことが判明しており、この群では、レジリエンス(打たれ強さ・逆境からの復元力等の意味をもつ心理学用語)が高いためと示唆されています。
この研究の弱点は、津波暴露群では成人及び若年者の入院記録は100%登録されている一方で、被災者が支援センターや実地臨床家に外来治療を求めた場合、彼・彼女らのデータが登録されていないケースが存在し、実際の疾患罹患率が低く見積もられている可能性があることです。また、津波暴露群では、非暴露群に比して、医療サービスを受ける意欲が高かった可能性もあるでしょう。また医師が診断をする際、津波暴露群に対して、津波非暴露群よりも、より、ストレス関連疾患の病名をつけようとするバイアスがかかった可能性が否定出来ないこと、津波の暴露群では、暴露前の精神疾患の罹患率が若干少なかった(暴露群で、6%、非暴露群で9%)ことがバイアスとなっている可能性があります。論文では触れていませんが、最大のバイアスは、年収の上位20%のものが、津波暴露群で34%、非暴露群で20%と大きな開きがあり、暴露群は、非暴露群よりも社会経済的地位が明らかに高いことではないかと思います。対照群の社会経済的地位についてより精度よくマッチングした上で解析を要したのではないかと考えます。
高い社会経済的地位にあることで、「支援」の選択肢も増え、「支援」へアクセスもより便利なものを選べ、こういった傾向は、精神疾患罹病率にも影響すると考えられます。本研究では、教育歴にも差があり、セカンダリースクール卒業が、津波暴露群で、41%、非暴露群で30%でした。
前述のごとく、この研究では改善が期待される点も多く見いだせる一方で、従来から指摘されている問題点にはほぼ完璧に答えており、得られたデータからは、「津波暴露」によるストレス関連疾患、特に「PTSD発症率の上昇」は、明確な事実と言えるでしょう。
今後は、若年者、成人ともに、津波暴露直後から、さらに成人においては津波暴露後暫く時期が経過しても、迅速、かつ正確な診断、及び適切な対応ができるよう、国家レベルで十分に準備をしていくことが必要と考えられます。ただし、社会的弱者がサポートから置き去りにされる事のないよう、社会経済的地位と精神疾患への影響についての理解も深め、個々人の症例検討への認識を持続させ、被災直後から長期にわたる継続的なメンタルサポート・ネットワークへの懐の深い支援も強く希望するものであります。