2015/08/25

愛し野塾 第38回 アルツハイマー病研究の進展はあるのか

アルツハイマー病研究の進展はあるのか




世界の認知症患者数は、4400万人と推計されており、2050年には、1億3500万人と増加することが予測されています。「地球疾病負荷」研究(2013年)では、1990年の統計結果と比較すると、アルツハイマー病に起因する身体不自由の時間は、92%増加した、とされています。

 日本でも、2025年の認証患者数は700万人を超えると推計されています(厚労省)。2015年現在、認知症患者ケアに要する費用は、14.5兆円に到達し、今後、爆発的に増加することが予測される認知症患者のために認知症治療法の進展が強く望まれています。

 国際医学誌ランセット8月号に、アルツハイマー病予防に示唆に富んだ結果が掲載され反響をよんでいます(Yau, Wai-Ying Wendy, et al. "Longitudinal assessment of neuroimaging and clinical markers in autosomal dominant Alzheimer's disease: a prospective cohort study." The Lancet Neurology 14.8 (2015): 804-813.)

 本研究では、アルツハイマー病を考える上で、モデルとなるとされる、「家族性アルツハイマー病」を対象としています。このアルツハイマー病は、遺伝子の異常だけで生じるため、その臨床経過の分析研究は、認知症に至るプロセスを明確にできると考えられるため重要なものです。

 汎用されている「アルツハイマー病」(弧発性アルツハイマー病と呼ばれます)は、様々な要因(年齢、喫煙歴、教育レベル、運動、性差、糖尿病、高血圧、APOE遺伝子多型など)が重なりその病像が形成されることから、病気に至るプロセスの解析には様々なバイアスが大きく結果の精度には疑問が残ります。


さて、家族性アルツハイマー病の原因遺伝子は、PEN1,PEN2,APPの3つが知られています。これら三つの原因遺伝子に病気を惹起する異常をもつかた(28歳から56歳の16人)を全米からリクルートし、脳の変化の経時的変化を追いました。2003年3月23日から2014年8月1日の間に、1~2年の間隔で、脳内アミロイドの沈着を、C11ピッツバーグコンパウンドB−PETを用いて定量化しました。後頭部の代謝はフルオロデオキしグルコースPETで、海馬の容量はMRIを用いて評価し、認知機能の測定にMINI記憶テストを遂行しました。


コントロール群は、65-89歳の認知脳―正常、アミロイドの沈着―なし、代謝異常、及び海馬の萎縮-なしのかたとしました。対象者は、2−11年の間に、2−8回の検査を受け、合計83回の検査を施行されました。


結果からは、


   脳代謝の低下が生じる約7.5年前からアミロイドの沈着が生じ、

   脳代謝の低下が生じた後、7.5年で海馬の萎縮、及び言葉の記憶の低下が認め、

   さらに10年後には、全般的な認知機能の低下が生じる



ことがわかりました。特に長期間の経過観察結果を得た7症例からは重要な知見が得られています。6−11年の期間に7−8回検査が行われ、以下のようにまとめられました。

  (1)神経変性や認知機能低下が認められないが、アミロイド沈着だけが進むものが
     3例、これは、アルツハイマー病の初期の段階と考えられます。


  (2)アミロイドの沈着はもはや進行せずプラトーとなり、神経変性が進み、

     認知機能の低下も進むものが2例、これは、中期の段階と考えられます。


  (3)アミロイド沈着はあるが、アミロイドの沈着はすでにプラトーに達しており、

    神経変性も認知機能もすでに進まなくなったものが2例、
    これは、終末期と考えられます。

 より多くの症例を用いたクロスセクショナルな解析で、同様の傾向についてこれまでも報告されてきましたが、本研究(ランセット8月号)で行われたように、同一症例の経時的なアルツハイマー病の進行の状態を病理、画像診断のレベルで解析できた意義は大きいと考えられています。

 さて、これまでの知見と総合すると、どうやら、アミロイドの沈着がまず最初に生じ、その後、脳代謝の低下が始まり、その後、脳の萎縮、認知機能低下へと進行するという病態の変化は、家族性アルツハイマー病の臨床経過としては正しそうです。

 次なる疑問は、この経過が、一般のアルツハイマー病にも当てはまるかどうかです。この病態発症プロセスを前提にした場合、抗アミロイド剤が、アミロイド沈着開始の早期の段階で投与された場合、認知症を予防するの否か、という点でしょう。仮に効果があるとしても、研究結果から鑑みるに認知症になる17.5年前から、アミロイドの沈着が始まるとすれば、すでに報告されてきたように「認知症病態の進行過程にある患者さんの場合、抗アミロイド剤が効果がない」ことから考えると、認知症の始まる10年ほど前、ひょっとしたら、17.5年前から、抗アミロイド剤治療を受けなければ、アルツハイマー病を予防できない、ということになりかねません。つまり理論的推理から服用効果を期待して、未だに症状がまったくないかたがアルツハイマー病になるかどうか確定していない状況で、薬をのみはじめることに妥当性があるのかということです。おそらく、一般的な心理状態では、血液検査によってほぼ100%の確立で、数年後にアルツハイマー病を発症するだろうと分かれば、抗アミロイド剤を使用したいということになるでしょうが・・・。

 この点、2015年6月にイギリス、キングスカレッジのキドル博士らの発表した「血液検査によるアルツハイマー病を予測」という論文は注目に値します(Kiddle, S. J., et al. "Plasma protein biomarkers of Alzheimer’s disease endophenotypes in asymptomatic older twins: early cognitive decline and regional brain volumes." Translational psychiatry 5.6 (2015): e584.)。双子研究によって、認知機能が低下する人と認知機能が維持される人の比較をした場合、「MAPKAP2」と呼ばれる蛋白質量に有意な差があることが明らかとなりました。この蛋白の減少は、MRI測定による脳容積低下と高い相関が認められています。このタンパク質の測定が、確実な認知症の早期診断に汎用されることを期待したいところですが現実的には容易なことではありません。

 アミロイドの沈着がアルツハイマー病の最初の変化であることは間違いないところのようです。この知見が治療に応用されるには今後の基礎+応用研究の積み重ねを要するところです。

 ではアルツハイマー予防のために現時点で何をすれば?と考えれば、これまでの研究から、バランスの取れた食生活、適切な運動など、リズムのある生活や、嗜好品に依存しない生活習慣の改善を図ることでしょう。なかでも、私は、個体差にあわせた定期的、かつ適度な運動と、ストレスを感じすぎない適度な社会活動ではないかなぁ、と思っています。

またこの話はあらためて。

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2015/08/24

愛し野塾 第37回 腎移植は冷却が有効か

腎臓移植は冷却が有効か



日本での腎移植待機者は、1万2千人を超え、その一方で昨年の移植実績数はわずか101例と発表され、そのうち脳死腎移植が59例のみという惨憺たる状況です(日本臓器移植ネットワークのHPより)。この問題を解決するには、まずは腎移植数を増やす施策を見直さなければなりません。しかし、改正法律の施行は困難を極めており、これを待っていたら、いつになるかもわからないという実情では、別な手段を考えなければなりません。少ない移植トライアルのうち、その成功率をわずかでも高くすることは現状では、有効な方法でしょう。

また、脳死腎移植は、生体腎移植よりも成功率が低く、改善法をみいだすことは成功の可能性をあげるのに大いに役立つでしょう。また、移植に必ずしも万全ではない、いわゆる「境界領域」のドナー(50歳以上で、高血圧、脳卒中、クレアチニンの上昇のうち2つ以上がある場合か、60歳以上の場合)から提供される臓器移植の成功率を上げることもキーポイントだと考えられます。

米国では、年に約1万千件の移植実績があり、症例から得られる知見も膨大で、今後の腎移植を考える上でその分析・検討は有用とされています。2012年、米国における脳死腎移植成功率は、73%、生体腎移植成功率は、84%と報告されています。成功率は、「5年間腎臓が機能していた場合」、と定義されますが、日本の実績でも、生体腎と脳死腎の移植成功率はほぼ同程度のようです(東京女子医大のHPより)。

移植が成功するかどうかは、臓器の状態の良し悪し、及びドナーの特性がかぎを握るとされます。生体腎に比べ、脳死腎の状態が悪いことは、脳死直後から始まる、非可逆的な生理的変化を考慮すれば、容易に想像がつきます。

脳死によって生じる脳圧の上昇は、自律神経系の反応を惹起し、カテコーラミンが超大量に放出します。その結果、血管が収縮して、諸臓器への血の循環が悪くなります。脳死の進行と共に血管動態は不安定性を増し、尿崩症が生じ、体液量が減少し、交感神経系の反応も低下します。

また脳死は、炎症反応や免疫反応も引き起こします。補体系が活性化され、炎症性サイトカインであるインターロイキン1、6、TNF、インターフェロンγが放出されます。血管内皮が活性化されセレクチンなどの接着分子が増加します。血液凝固系も脳から放出されるトロンボプラスチンによって活性化されます。

ドナーの死によって、腎臓もダメージを受けるというリスクがある上、臓器の保存時および移植時に生じるダメージのリスクも上昇し、透析からの離脱遅延(これを移植後腎機能発現遅延と呼びます)の要因となります。

移植後腎機能発現遅延は、境界領域のドナーで、やや高齢なかたも対象にすると、50%近くに生じるとされます。この移植後腎機能発現遅延によって、入院期間が伸び、透析に要する費用がかさむだけではなく、なによりも、急性移植片拒絶反応が生じたり、移植片機能損失を被ったりとリスクが重なります。移植後腎機能発現遅延を低減する方法の開発が待ち望まれているという状況は、こういった背景からもよく理解できるでしょう。

さて、2015年7月末、カリフォルニア大学サンフランシスコ校のニーマン博士らは、移植後腎機能発現遅延のリスクを低減する、とても簡単な方法を開発したので、話題を呼んでおり、ここに紹介します(Therapeutic Hypothermia in Deceased Organ Donors and Kidney-Graft Function、N Engl J Med 2015; 373:405-414July 30, 2015DOI: 10.1056/NEJMoa1501969)。

低温法は、心停止や、脳卒中の患者の神経機能を保護する治療法として、すでにそのプロトコールは確立されています。心停止後の患者に生じる腎障害が、低温法を用いると、軽度な障害で済む、という報告もあり、今回の研究の発想にいたったようです。
この研究では、臓器ドナーを従来よりやや低温に保持することで、移植後腎機能発現遅延を低減できないかを検討しています。

対象者は、低体温法が150人、標準法が152人で、いずれの群も、平均年齢は、45歳で、女性37%、男性63%と比率も同じでした。境界領域のドナーは、それぞれ共に27%の割合で含まれていました。両群のクレアチニンレベルは、1.1、GFRは、89と良好な値を示しました。臓器移植を受けるレシピエントは、低温法が238人(女性38.2%、男性618%)、標準法が238人(女性42.4%、男性57.6%)でした。両群のBMIは共に27でした。

ドナーは標準法と低温法の二つのグループに分けられました。標準法では、ドナーの体温が36.5度から37.5度温度に保持され、低温法では34−35度の低温に保持され、前向きに無作為に2群に割り付けられました。割り付けから、目的温度に保持するのに要する平均時間は4時間で、臓器取り出しに要するまでの平均保持時間は、16.9時間でした。温度保持のために使用されたのは、毛布がもっとも多く(低温法で、74%、標準法で、53%)、体温は、膀胱温か、直腸温で測定され、低温保持法で、34.6度、通常法で、36.8度となりました(P<0.001)。

移植後7日までの透析実施率は、標準法では39.2%で、低温保持法では28.2%で、低温に保持することで、38%の有意な低下を認めました(P=0.02)
特に、境界領域のドナーの移植では、顕著な差を認め、移植後腎機能発現遅延は、低温法で31%、通常温度法で56.5にみられ、低温法は、69%の低減効果(P0.003)がありました。

また、移植後腎機能発現遅延は、2個の腎移植を同じドナーから同じレシピエントに行った場合、低温法では、0%(5回中0回)、標準法では、83%(6回中5回)に生じていました(1個では機能不足が予想され、2個移植をせざるを得ない症例)。結果を暫定解析したところ、標準法に比べ、低温法が有意に優れていることが判明したため、臨床試験は途中で中止となりました。この段階では、目標とされた登録人数の49%にしか到達しておらず、かなり早期に試験が中止になった印象です。

この研究では、残念ながら、低温法を用いた場合での腎臓以外の腹部臓器の移植への影響の検討はありませんでした。特に肝臓や膵臓の移植には問題がなかったのかについても気になるところです。また、急性移植片拒絶反応、移植片機能損失のデータも記載がなく、長期的アウトカムのデータは必須と考えられます。さらなる研究の進展を待ちたいと思います。

こうした問題点があるにしても、猫も杓子も分子医学という時代に、温度調整をするだけの一工夫で、劇的な移植成功率をあげるという結果に結びつくといううれしいニュースに、個人的にはつくづく研究に必要なのは、アイデアと実行力なのだなあと感心してしまうのでした。

2015/08/09

愛し野塾 第36回 スパイシーフードが健康にいい?!




食事の話題は、「グルメ嗜好」と同時に「健康の維持・増進・長寿の潜在性」という観点から目が離せません。

これまで栄養学、疫学のエキスパートの一致した意見として、「慢性疾患から体を守るには、健康的な食事をすることが重要で、適切な量のフルーツ、野菜、全穀粒、ナッツ、豆、ファイバー、魚を食する一方で、赤身肉を減らし、加工肉を極力食べないようにし、塩分を抑え、甘味飲料は飲まないようにする」ことが推奨されてきました。これは、「糖質制限」「高蛋白」食に代表される、どの栄養素を増やすべきか、もしくは減らすべきかという観点というよりもむしろ、「食事のパターン」の観点から大規模試験によって解析・検討され、健康増進や疾病リスク減少に有効な食生活様式(例・地中海食等)が明らかになってきたからでしょう。


さて、一方で、ある特別な食事性要素の、「健康増進・長寿」の可能性の有無についても継続的に研究されています。

今回、「ホットスパイス」に注目した研究が報告され、話題となっているのでご紹介します(Lv, J., Qi, L., Yu, C., Yang, L., Guo, Y., Chen, Y., ... & Li, L. (2015). Consumption of spicy foods and total and cause specific mortality: population based cohort study.)
 

コホート研究(中国カドリーバイオバンク)で、2004年から2008年にリクルートされた、30-79歳の約50万人が対象となりました。自己申告法による、「スパイシーフード」の消費量と、死亡率との関係を前向き研究で割り出しています。平均観察期間は7.2年間で、観察期間中の死亡数は20,224人でした。

週に6-7回「スパイシーフード」を消費する群は、週に1度以下の「スパイシーフード」消費群に比べて、14%の死亡率低減効果があるということがわかりました。「スパイシーフッド」消費頻度が、週に3-5回でも(14%低減効果あり)、1度でも(10%低減効果あり)、2度でも(16%低減効果あり)、同じような死亡率低減効果があったということでした。

加えて、癌、虚血性心疾患、呼吸器疾患の死亡率について、「スパイシーフード」消費量と負の相関がありました。

この研究対象のサイズの大きさは、非常に大きく(50万人)、加えて中国の都市部と田舎の双方を含む10箇所から、対象者を選別している点、かつ前向き研究である点も研究方法の妥当性評価を指示するものといえるでしょう。



しかし、残念ながら、結論の正当性を議論するには、「手法上の大きな問題点」が否めません。自己申告の食事内容項目が、「赤身肉」「新鮮なフルーツ」「新鮮な野菜」についてのみで、総エネルギー摂取量が計算できない点は、栄養研究として致命的欠陥ではないでしょうか。言い換えれば、この研究の対象となっている「チリ」と呼ばれる激辛の胡椒を使った食事が、摂取カロリーの影響を受けて、死亡率を下げているのかどうかが、わからないのです。

 同様に、「スパイシーフード」に伴う、特色ある食事内容のパターンが解析できないため、死亡率の低下効果があったとして、その原因が、「チリ」の消費と関係があるのか、「チリを食する食事のパターン」にあるのかが解析不能です。「チリ」の量や、その辛さの程度についてもデータがありません。



この研究の結果からは、「チリ」消費頻度には、容量依存性の効果が認められておらず、この点は明確に示されたいものです。「アルコール消費量」の影響はスパイシーフードの効果を上回り、アルコール消費によって、「チリ」消費と死亡率低減効果の相関関係がないと結論付けられています。「アルコール」消費をしていない場合のみ、死亡率低減効果が認められたという結果でした。その意義付けは不明です。

「アルコール」以外の飲み物についての考察がなく、「チリ」消費の場合には、「アルコール」以外の飲み物の消費が増える可能性が推測され、飲み物の種類と消費量についての調査は欠かせないと考えられます。最近のデータで、茶の消費量と死亡率低減の間に相関があるとの報告があり、本研究では不明瞭な点が否めません。
 



スパイシーな食事はいまや大流行です。そのため、この論文は反響も大きく、取り上げたCNNの記事では、ペンシルベニア州立大学のヘイズ博士が「スパイシーフードは、低カロリーのキムチもあるが、高カロリーのバーベキューソース味のスペアリブもあり、一概にスパイシーフードがいいというのは危険である」と警鐘を鳴らしています。「スパイシーフード」の消費カロリーの算出が必須であることを暗にほのめかしていると受け止められます。



今回の研究は、「スパイシーフード」の健康への効用が示されたというよりは、今後の研究に「HOTな火」をつけたと評価するのが正解かもしれませんね。

 ただし、男性の場合では、「チリ」を週に6-7回食するかたは、1回以下の方と比べると、喫煙率が23%高く、飲酒率は74%高いにもかかわらず、死亡率が14%も低下したという点は、非常に気になります。

「チリ」の健康促進効果について、前向き研究での再検討がまたれます。

 「チリ」たっぷりの激辛ラーメンに健康増進効果があるとすれば、猛暑の夏も気持ちよく汗をかきながら乗り切れる、となるのですが!



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2015/08/03

愛し野塾 第35回 大きな自然災害がもたらす精神疾患




ポンペイの風景

自然災害がメンタルヘルスに影響を与えることは既知の事実です。なかでも心的外傷後ストレス「PTSD (Post-Traumatic Stress Disorder)」は、純粋に直接的な外傷事態に因って当該者を苦しめる精神疾患です。この疾患は強烈なストレス体験で引き起こされるのですが、自然災害を経験したケースでは、数ヶ月ないしは数年という長い時間を経た後も、その経験に対して恐怖を再体験し、突然、災害時の状況が思い出され、強い不安状態や緊張状態を強いられることがあり、めまい、動悸、頭痛、不眠、あるいは心的麻痺、といった症状を伴うことがすくなくありません。

PTSDは、自然災害に直接遭遇したかたの30-40%に生じるとされ、災害に関わった救護隊員のうちの10-20%、また当該地域住民の5-10%程度の割合で症状が認められると報告されています。

PTSD症状の重症度は、多様な因子(社会人口学的因子・イベント暴露・社会的支援・性格特性等)に影響され、自然災害が生じた場合には、救護チームにカウンセラーも同行し、予測不能な災害によって生じた悲惨な状況を受けとめられず傷つけられている被災者に即座に対応する体勢づくりの重要性が注目されています。

自然災害に伴うメンタル疾患研究の重要性が増す一方、現実的にはその研究を成功させることは非常に困難でした。それには、5つの主な理由が考えられています。(1)自然災害遭遇前の精神疾患の状態把握が難しいこと、(2)疾患の性格上、観察期間が短くならざるをえないこと、(3)対象者の脱落率が高いこと、(4)対比するべき対照となる集団(コントロール群)を得るのが難しいこと、(5)対象者の主観に基づいた症状報告に頼り、専門の医療機関による診断に基づいた客観的データを得ることが困難であること、などです。本研究では、アーンバーグ博士らは、こうした問題について適切に対処し、新たな知見を得て、ランセットサイキアトリーに報告しました(Lancet Psychiatry July 23 2015)。
引用:Arnberg, Filip K., et al. "Psychiatric disorders and suicide attempts in Swedish survivors of the 2004 southeast Asia tsunami: a 5 year matched cohort study."The Lancet Psychiatry (2015).

2004年スマトラ島沖地震で生じたインド洋津波では、10mに及ぶ津波が数回、最大の津波は34mとされるものが、インド洋に押し寄せました。M9.3とされる最大級の地震は、22万余人の命を奪い、被災者の総数は500万人にまで膨れ上がりました。554人のスウェーデン人が命を奪われ、未だ1800人以上が行方不明となっています。諸外国の中では、スウェーデン人の被害は最大とされています。

本研究では、この津波の被害を生き延びたスウェーデン人成人8762人と若年者3942人を対象とし、2004年12月26日から2010年1月31日までの5年間の観察研究が行われました。
国家管理下での患者登録記録を参照し、対象者の精神疾患罹患率を算出しました。年齢、性別、社会経済的地位レベルを対象者同レベルになるように抽出した津波非暴露(津波に遭わなかった)の対象群(864,088人の成人と320,828人の若年者)の精神疾患罹患率と比較検討しました。

津波暴露群(津波に曝されたグループ)は、成人で平均年齢42.1歳、若年者で、12.7歳でした。被災者の34%が年収の上位20%を占め、社会経済地位の高いかたが多いことがわかりました。得られた結果について、成人対象者は、津波暴露以前の精神疾患の罹患率で補正され、若年の対象者は、その親の津波暴露前の精神疾患の罹患率で補正しました。
津波暴露群の成人の精神疾患の罹患率は、6.2%(547人)と、比較的少ない数値でしたが、津波非暴露の成人に比較して、21%の罹患率の上昇を認めました。ストレス関連性疾患は2.27倍も増加し、特にPTSDは高く、非暴露者の7.51倍の罹患率という結果を得ました。一方、自殺企図は、1.54倍の増加にとどまり、気分障害や不安障害といった項目は、両群間に差を認めませんでした。

成人の場合、ストレス関連疾患は、津波暴露後1年以上経過した後も認められました。直接津波に遭遇した場合のPTSD罹病率は、14.6倍という高率を示し、津波に間接的に遭遇した場合のPTSD罹患率は、3.48倍と、統計的には間接暴露か直接暴露かで顕著に差を認めました。

若年者の場合は、津波暴露の有無は精神疾患の罹病率には影響を与えませんでしたが、暴露歴があるグループでは、「自殺企図」が1.43倍に増し、「ストレス関連疾患」が1.79倍になることがわかりました。特に高い罹病率は津波暴露された若年者のPTSDで、非暴露群の2.83倍に及びました。またこれらの罹病率増加の多くは津波暴露後3ヶ月以内に認められました。

この研究の特徴でもあり、かつ注目されるべき点は、津波暴露された成人対象者の多くは高い社会経済的地位に属し、津波暴露後早期のうちに非被災地域へ移り住んでいることから、被災地に居住した場合に受けると想定される被災後に生じる独特の生活上の不安やストレスの影響を受けておらず、「純粋に津波暴露に伴う影響」を検討することができたことです。同時に、津波暴露後に被災地に居住する際のストレスを回避出来た事が、気分障害や不安障害を来さなかった理由ではないか、と考察されています。
若年者の群は、気分障害、不安障害がむしろ津波暴露群の方が少ないことが判明しており、この群では、レジリエンス(打たれ強さ・逆境からの復元力等の意味をもつ心理学用語)が高いためと示唆されています。

この研究の弱点は、津波暴露群では成人及び若年者の入院記録は100%登録されている一方で、被災者が支援センターや実地臨床家に外来治療を求めた場合、彼・彼女らのデータが登録されていないケースが存在し、実際の疾患罹患率が低く見積もられている可能性があることです。また、津波暴露群では、非暴露群に比して、医療サービスを受ける意欲が高かった可能性もあるでしょう。また医師が診断をする際、津波暴露群に対して、津波非暴露群よりも、より、ストレス関連疾患の病名をつけようとするバイアスがかかった可能性が否定出来ないこと、津波の暴露群では、暴露前の精神疾患の罹患率が若干少なかった(暴露群で、6%、非暴露群で9%)ことがバイアスとなっている可能性があります。論文では触れていませんが、最大のバイアスは、年収の上位20%のものが、津波暴露群で34%、非暴露群で20%と大きな開きがあり、暴露群は、非暴露群よりも社会経済的地位が明らかに高いことではないかと思います。対照群の社会経済的地位についてより精度よくマッチングした上で解析を要したのではないかと考えます。
高い社会経済的地位にあることで、「支援」の選択肢も増え、「支援」へアクセスもより便利なものを選べ、こういった傾向は、精神疾患罹病率にも影響すると考えられます。本研究では、教育歴にも差があり、セカンダリースクール卒業が、津波暴露群で、41%、非暴露群で30%でした。

前述のごとく、この研究では改善が期待される点も多く見いだせる一方で、従来から指摘されている問題点にはほぼ完璧に答えており、得られたデータからは、「津波暴露」によるストレス関連疾患、特に「PTSD発症率の上昇」は、明確な事実と言えるでしょう。
今後は、若年者、成人ともに、津波暴露直後から、さらに成人においては津波暴露後暫く時期が経過しても、迅速、かつ正確な診断、及び適切な対応ができるよう、国家レベルで十分に準備をしていくことが必要と考えられます。ただし、社会的弱者がサポートから置き去りにされる事のないよう、社会経済的地位と精神疾患への影響についての理解も深め、個々人の症例検討への認識を持続させ、被災直後から長期にわたる継続的なメンタルサポート・ネットワークへの懐の深い支援も強く希望するものであります。

2015/08/02

愛し野塾 第34回 エボラワクチン開発への大きな一歩


 
 今だ、アフリカ象牙海岸から帰国したひとが熱発するとエボラウイルス感染者ではないか、と疑われ、自宅待機を強いられることはもとより、緊急検査の対象となり、その一挙一動がテレビ、新聞、ネットなど報道を賑わせ、日本国民は固唾をのんで検査結果を見守るという構図は変わりません。

 エボラウイルスが猛威を振るい、2万人以上の犠牲者をだしたと報道されてきた脅威の事実は、世界中の人の心に深い傷を残しました。このまれに見る公衆衛生上の緊急事態を早急に沈静化するには、ワクチン開発が最も有効とされていましたが、通常10年を要するといわれるワクチン開発ですから、エボラウイルスについても消極的な予測をする専門家の意見も少なくありませんでした。ところが、今回、ランセットに発表された新規エボラウイルスワクチンは、パンデミックからわずか1年という短期間で開発されたにもかかわらず、100%感染予防効果がある、との内容でしたから、まさに今世界中のメディアが注目しています。極めて「有効」、かつ「安全」なワクチンが、致死率の高いウイルスに抗して開発成功に導かれた喜ばしい報告でした。この内容は、7月31日号のランセットに、エボラウイルスのワクチンの第三相試験の結果として発表になりました。なお、この研究はWHOの資金によってサポートされています。

 ワクチンは、ザイールエボラウイルスの表面糖蛋白を、複製可能な水泡性口炎ウイルスVSVに組み込んだものでした。対象としたのは、ギニアの7,561人の人々でした。ここで使われた手法は、天然痘ウイルス駆逐を可能にした、リングワクチン法でした。これは、エボラウイルスの確定診断を受けた患者Aをターゲットとし、Aの接触者と、接触者の接触者まで割り出し、ワクチン接種をおこなうため、「リングワクチン法」とよばれます。

 接触者と、接触者の接触者を一つの集団と見なし、クラスターと定義しました。全クラスターは二つに分類され、即座にワクチンを投与するグループと、21日遅延でワクチンを投与するグループに、無作為に割り付けられました。対象者は、18歳以上の成人で、かつ妊娠あるいは母乳を与えていない人でした。都会、もしくは田舎のクラスターか、クラスターのリングのサイズが20人未満、もしくは20人以上かで無作為化されました。エボラ感染症の潜伏期間が10日であることを考慮し、アウトカムは、無作為割り付けから10日以上経過した後の、エボラ感染症発症者数としました。

 20154月1日から2015年7月20日の間に、90クラスターが登録されました。90クラスターは、即時ワクチン投与群が48クラスター(4123人)は、遅延ワクチン投与群が42クラスター(3528人)と2つに分類されました。

 試験開始後10日以降のエボラ感染症発症者は、即時ワクチン投与群は、0人で、遅延群では16人、 ワクチン有効率は100%(p=0.0036)でした。即時群でも遅延群でも、ワクチン投与後6日以降は、エボラ感染者は0人でした。ワクチン投与群で、重篤とされる副反応が一例にのみ認められました。熱発反応がありましたが、命に別状はなく回復されたとのことでした。期間中の全エボラ感染者は75人で、33人が死亡しました。このワクチンの有効性について問題がないと評価され、2015年7月24日には、即時法によるワクチン接種のみ臨床試験の継続が決定しました。今後より多くの症例を積み重ね、有効性と安全性の確立を目指す段階へと大きな一歩を踏み出したのです。

 リングワクチン接種を可能にしたのは、感染地帯に住む住民の命がけの協力の賜物でした。「母国を滅ぼそうとするウイルスを撲滅したい」、その思いが、この研究を成功に導いたのです。研究チームの90%を、ギニア人が占めていたことがこのことを如実に語ります。感染者を特定し、その接触者を丁寧に割り出し、そのまた接触者を割り出す作業を、迅速に進めたられたからこそ、プロトコル通りのワクチン接種ができたことでしょう。もちろん、ギニアでこの規模の臨床研究が行われたことはこれまで一度もありませんでした。

 今後は、この研究の妥当性等、徹底的に検証を受けることは間違いのないでしょうし、特段、ワクチンの安全性の検証として長期に渡る副反応の観察は怠れません。WHOの指導のもと、グローバル・エボラワクチン・インプリメンテーションチームは、安全基準をクリアし、本プロジェクトのデータの妥当性が証明されれば、西アフリカ諸国とライセンシング契約を締結し、ワクチン普及への道をつけることになると予想されます。GAVIアライアンスは、すでに、ワクチン作成と普及にかなりの出資を表明しています。


 エボラウイルスの蔓延により、西アフリカ諸国は、一時的にカオスに陥りました。しかし、そのカオスが契機となり、他諸国が力を合わせ、過去に例のない協力体制を設け、今回のワクチン開発を現実化させたことは公衆衛生学史に残る快挙とも言えるかもしれません。当初WHOは、その対応の遅れが、エボラの蔓延を招いたと国際的な批判に晒され、WHOの存在意義まで疑われる始末でした。しかし、こうしてWHOが国際協力の旗頭となり、地球レベルで人々の生命の危機を救う大プランが、当該地域だけではなく、国際的理解を得る事で現実化してゆけば、脅威のウイルスを制圧できる日も遠くないと思うものです。