2016/08/31

第84回 愛し野塾 フランケンシュタイン研究


1990年、ヒューマンゲノムプロジェクトがはじまったとき、「ヒトの全遺伝子30億個を解読することは到底不可能ではないだろうか」、と多くの研究者は疑問に感じていました。解読に必要な遺伝子配列決定はマニュアル操作でしかできなかった時代ですから、この計画が途方もないものに感じられたのでしょう。しかし、13年の歳月と3000億円の費用をかけ国際協力プロジェクト成功したときには、すでに、シークエンス技術が革新的に進歩し、その操作方法はオートマチックになり極めて安価になっていました。今では、たった一日の労力で、しかも、費用は、わずか10万円で、全ヒトゲノムが解読できるようになりました。このため、多くのひとの全ゲノムが遺伝子バンクに蓄積されるに至っています。様々な未知の病気の発見とその治療の可能性を広げる宝石となったのです。日常臨床にもこの技術がすでに利用されています。山中先生が、iPS細胞を世に送り出したとき、細胞にたった4個の遺伝子を打ち込むだけで、どの細胞にでも分化できる幹細胞になるなんて「ありえない」と思っていた学者は多数いました。今では、この技術を用いて、人の網膜色素変性症の治療が始まっています。「ありえない」と思う研究が次々と成功を収め、サイエンスをめぐる革新的技術の蓄積は日に日に増え、われわれの知識を深め、生活を豊かにしてくれます。つい先日は、ヒューマンゲノム計画のリバースバージョン、試験管のなかで、人の全遺伝子を合成するプロジェクトの話で、世間は驚嘆させられました。本日お届けする驚きの話は、「ヒトと動物のキメラをつくることで、代替臓器を動物の中でつくる」プロジェクトについてです。
8月日号のネイチャー・ニュースに、この内容が掲載されました
2015年9月、世界最大の研究機関であるNIHは、「動物のエンブリオに人の幹細胞を付加することで、ヒトと動物のキメラを作る実験には、倫理的観点から問題がある」とし、それに関わる研究費を拠出しないと決定し、世界中の研究者が安堵していました。しかし、この決定もつかの間、この8月日に発表になったNIHの新しい案では、条件によっては、キメラ実験に研究費を与える用意があるとし、これまでの態度を180度変えたのです。今後は、新規に委員会を設置し、研究内容の倫理的側面や、監督を強化する予定です。
その条件というのは、ヒト以外の脊椎動物のエンブリオにヒトの細胞を導入する際の、エンブリオの発達段階として、中枢神経が形成開始前(原腸期:gastrula)については、厳格な審査をするというルールです。原腸期には、3つの層が形成され、ここから各組織や器官に分化します。この制限を設けることで、キメラ動物での脳にできるヒトの細胞の数を抑制しようという意図です。つまり、人間の脳をもった動物「スーパーアニマル」の出現を防ぐのが目的です。また、原腸期の後の発達段階にある哺乳類の脳(げっ歯類は除く)に、ヒトの細胞を導入する場合も同じく厳しい査定を受けることになります。動物の中で、交配可能となる、ヒトの精子や卵を作ることは引き続き禁じられます。
 研究助成金申請段階で、グレーゾーンと判断されるものは、審査委員会を通すことになります。ことに、神経を尖らせなければならないのが、人間の脳機能をもつ霊長類ができる可能性を徹底的に阻止することで、このことでは、審査委員会に期待するとしています。
「キメラ」は研究分野として成長株になっています。現在、早期のエンブリオの発達段階の研究や、ヒトの病気の動物モデルを作成することに使われています。しかし、主な目的の一つであるヒトの臓器を動物でつくることに関しては、まったく手がつけられていない状況です。つまり「キメラ動物でできたヒトの臓器」を取り出し、ヒトに移植しようという考えです。豚や、羊に、ヒトの腎臓を作らせ、それを使って、腎臓移植をしようというのです。確かに、臓器不足は移植医学の大きな問題で、この手法が的確に使用されることは望ましいと考える向きもあることは事実です。
しかし、このような研究は、公的にはもちろんのこと、私的な援助を受けた場合にも、厳格な審査を合格しなければ、英国では遂行できない仕組みができており、国民の理解を得ています。ことし、同国では、1月に施行された法律により、ヒトの外見を持つ動物キメラを作る場合、さらに厳しい審査を受けることが決まりました。しかし、そのほかの国に目を向けると、米国では、私的な援助であれば、研究の制限を受けていません。日本も同様で、実際、マウス内でラットの膵臓を作った研究グループが、我が国にあります(Kobayashi, T., Yamaguchi, T., Hamanaka, S., Kato-Itoh, M., Yamazaki, Y., Ibata, M., ... & Hirabayashi, M. (2010). Generation of rat pancreas in mouse by interspecific blastocyst injection of pluripotent stem cells. Cell, 142(5), 787-799. )。そのほか、ヒトの幹細胞をマウスのエンブリオに打ち込み、ヒトのメンタル疾患モデルを作成しているグループもあります。

ヒトの病気を治すという一見高尚な目標を持つ研究が、実は、動物の顔形を持ちながら、人間の脳機能を内在するキメラをつくる恐れがあるとしたらどのように一般大衆は捉えるのでしょうか。また、キメラ動物が有するヒトの細胞の数が、全体の51%になったら、このキメラは、「ヒト」と分類されるのか、という重大な倫理的問題が生じると論じる学者もいます。現代の「フランケンシュタイン」出現が現実のものとなってきた今、我々国民は、「心凍り付く」結果を招きかねない研究には「ストップ」を呼びかける勇気を持つべきではないでしょうか。