2016/08/31

第85回 愛し野塾 転倒防止を可能にするトレーニングの開発


65歳以上の高齢者の3割は、年に一度は転倒するといわれています。認知機能が落ちているかたや、パーキンソン病の方では、転倒リスクはさらに高く60-80%に及びます。そして転倒によって受けた障害をきっかけに、自立した生活が送れなくなったり、社会から孤立してしまったり、施設の入所を余儀なくされたり、最悪の場合、お亡くなりになったりすることもあります。先進国の統計では、転倒に要する費用は、医療費全体の1-2%を占めるといわれています。
 転倒の多くは歩行中に生じ、その 要因としては、障害物と適切な距離感を認識できず、障害物との距離をあまりにもつめすぎて通り過ぎようとして、つまづく、ぶつかる、バランスを崩して転倒するのだそうです。障害物を適切に避けて「安全な歩行を維持」するには、下肢筋力、体幹バランスの維持はもちろんのこと、即座に運動計画をたて(フィードフォワード)、分割的注意力、実行能力 、判断力、といった認知にも関わる能力を動員しなければなりません。つまり、歩行中の転倒リスクを減らすには、「認知機能」「運動機能」の両者を向上させることで「障害物回避機能」を改善することが必要となります。
今回、トレッドミルに「非没入型バーチャルリアリティー」を組み併せた手法で、これまで別々に行われた 「認知機能」と「運動機能」の二つの訓練を同時に施行することを可能とし、転倒予防リスクを低下させたという興味深い論文が発表されました 。論文は、8月号ランセットに掲載されました。
研究は、ベルギー、イタリア、イスラエル、オランダ、英国の5カ国、5カ所の研究センターの協力によって行われました。対象者は、過去6ヶ月に少なくとも2回の転倒があった60-90歳のうち、介助なしで5分歩行が可能で、前月までの服薬状況が安定しているかたでした。臨床認知症評価法(CDR)で、0.5とわずかに認知機能が落ちているひとも参加が認められました。パーキンソン病の患者も含み、パーキンソン病の投薬を受けており、ヤールの重症度分類で、IIIIIのやや進行性の患者が選択されました。
トレーニングは、1回45分を週3回、合計6週間行われました 。トレッドミルの前に大型スクリーンが設置され 、あらかじめ用意されたプログラムにより、障害物、選択しうる複数の道、注意をそらせるようなオブジェクトを映し出されました。同時に音声による刺激も加えられました。トレッドミル上の被検者の足の位置は撮影され、リアルタイムでスクリーンに映し出されるため、被検者は、自分の足が画面上の障害物を適切に避けられているかどうかを確認することができます。それぞれの参加者の運動能力、認知機能に適切なプログラムが計画され、毎回のトレーニングでは、監督者が付き添い、トレーニングレベルは、「トレッドミル速度、歩行時間 、画面上の障害物、注意をそらすオブジェクトの大きさ、出現頻度の変更」によって調整されました 。「転倒の定義」は、「被検者が、地面、床、体より低い位置で休まなければならない、予期しない出来事」とされ、被検者は「転倒」が生じるごとに、「転倒カレンダー」への記入が義務づけられました。紙媒体、WEBスマートフォンに記録し、後者2媒体の場合は、アップデートは即日施行され、紙媒体の場合は、毎月、記録用紙を集計しました。研究スタッフは、毎月それぞれの患者にコンタクトし、転倒カレンダーの記入状況を確認しました。
主要評価項目として、*トレーニング終了後6ヶ月間の「転倒回数」をが調査分析され、2次評価項目として、*転倒リスク因子である「歩行速度」「歩行速度のばらつき」「障害物通過時につま先が地面からどの程度上がるか(フットクリアランス)」「忍耐能力、バランス力、移動能力」「注意能力、実行能力」「健康に関する生活の質」について分析されました。また、「ショートフィジカルパーフォーマンス試験(SPPB)によるバランス、歩行速度、椅子立ち上がり」、QOLを調べる「SF-36のメンタル、フィジカル検査」も評価項目として分析されました。

結果
661人の被検者をスクリーニングし、2013年から2015年の間に、302人のかたを、条件に従い選別しました。無作為に、*148人をトレッドミルのみのトレーニング(トレッドミル群)、*154人をトレッドミル+ヴァーチャルリアリティー(トレッドミル+ヴァーチャルリアリティー群)に振り分けました。前者の群~後者の群を比べると、年齢は、73.3歳~74.2歳、男性の比率は62~67%、過去6ヶ月の転倒回数は、10.71回~11.92回、MMSEスコアは28。2~27.8、歩行速度は、いずれも1.02msで、それぞれの群のプロフィールには、差がありませんでした。
パーキンソン病のかたは、64人~66人、認知機能低下のかたは、20人~23人、原因不明の転倒者は、52人~57人と、転倒理由の差も両群間でありませんでした。受けたトレーニングセッション回数も、16.82回~16.62回と違いはありませんでした。

主要評価項目<転倒回数>
トレッドミル+ヴァーチャルリアリティー群では、訓練後6ヶ月間の転倒の回数は、6.00に減少しました(P<0.0001)。トレッドミル群では、訓練後6ヶ月の転倒回数は、8.27と減少傾向はあるものの有意差を認めませんでした(P=0.49)。トレッドミル+ヴァーチャルリアリティー群では、トレッドミル群と比較して、42%も有意に転倒回数が低下していることが判明しました(P=0.033)。

2次評価項目
<歩行速度のばらつき・フットクリアランス・SPPBのバランス、歩行速度・SF36のフィジカル、メンタル>について、トレッドミル+ヴァーチャルリアリティー群が、トレッドミル群に比べて、有意に良好な結果となりました。
トレーニングセッション中、8回の転倒が記録されました。これらはいずれも、トレッドミル施行中ではなく、自宅などで生じており、トレッドミル+ヴァーチャルリアリティー群で3例、トレッドミル群で5例でした。自然死、脳卒中、頭部外傷、心筋梗塞、関節痛がほかに認められましたが、分析の結果、いずれも、トレーニングに伴うものではないと結論づけられました。

サブグループ解析
パーキンソン病のかたが、トレッドミル+ヴァーチャルリアリティートレーニングを行うことによって、55%もの有意な転倒回数減少認めました(P=0.015)。しかし、原因不明の転倒群と、わずかな認知機能低下群では、トレッドミル+ヴァーチャルリアリティートレーニングによる転倒減少効果は認められませんでした。後者2群(原因不明の転倒群と、わずかな認知機能低下群)では、被検者が少ないことにより、解析困難だった可能性が考えられますが、試験開始前の段階で、原因不明転倒者については、トレッドミル+ヴァーチャルリアリティー群のほうが、トレッドミル群よりも、有意に転倒回数が多かった(8.07対3.23、P=0.0001)ため、ヴァーチャルリアリティーによる効果をみるには不適切と考えられました。
この研究では、転倒回数を被検者による主観的記憶に基づいて算出していること、コストの計算をしていないこと、監督者をつけていることが、疑問点として上げられます。信頼性の高い転倒回数の算出のために、今後は、被検者をリクルートした後に、転倒回数を調査した後にトレーニングセッションに入ることが重要と考えられます。監督者については、毎回のトレーニングに随伴していたとしても、トレーニングそのものが「比較的単純かつ短時間」で終了するため、費用も大きくなることはないのではないか、と専門家が意見しています。費用対効果の点からもこのヴァーチャルリアリティーの採用が推奨されるというのは朗報でしょう。2次評価項目では、ヴァーチャルリアリティー追加により、 転倒リスクの関与因子が多数改善されることが明確になり期待が高まります。
運動といえば、思い浮かべるのは、筋力と持久力ですが、加齢に伴って運動認知機能のトレーニングも加えて 、ユニークな方法で転倒が予防できるとなればADL全般にわたって改善が図られるように思います。

そして、論文を読み返してみると、転倒リスクが上がる年齢に至る前に、ジムでひたすらトレッドミルトレーニングをするよりも、むしろ、石や縁石、電信柱等のある、ありふれた障害物の豊富な「現実の道」を日常生活の中でしっかり歩きなさい、というメッセージのように思わずにはいられません。

第84回 愛し野塾 フランケンシュタイン研究


1990年、ヒューマンゲノムプロジェクトがはじまったとき、「ヒトの全遺伝子30億個を解読することは到底不可能ではないだろうか」、と多くの研究者は疑問に感じていました。解読に必要な遺伝子配列決定はマニュアル操作でしかできなかった時代ですから、この計画が途方もないものに感じられたのでしょう。しかし、13年の歳月と3000億円の費用をかけ国際協力プロジェクト成功したときには、すでに、シークエンス技術が革新的に進歩し、その操作方法はオートマチックになり極めて安価になっていました。今では、たった一日の労力で、しかも、費用は、わずか10万円で、全ヒトゲノムが解読できるようになりました。このため、多くのひとの全ゲノムが遺伝子バンクに蓄積されるに至っています。様々な未知の病気の発見とその治療の可能性を広げる宝石となったのです。日常臨床にもこの技術がすでに利用されています。山中先生が、iPS細胞を世に送り出したとき、細胞にたった4個の遺伝子を打ち込むだけで、どの細胞にでも分化できる幹細胞になるなんて「ありえない」と思っていた学者は多数いました。今では、この技術を用いて、人の網膜色素変性症の治療が始まっています。「ありえない」と思う研究が次々と成功を収め、サイエンスをめぐる革新的技術の蓄積は日に日に増え、われわれの知識を深め、生活を豊かにしてくれます。つい先日は、ヒューマンゲノム計画のリバースバージョン、試験管のなかで、人の全遺伝子を合成するプロジェクトの話で、世間は驚嘆させられました。本日お届けする驚きの話は、「ヒトと動物のキメラをつくることで、代替臓器を動物の中でつくる」プロジェクトについてです。
8月日号のネイチャー・ニュースに、この内容が掲載されました
2015年9月、世界最大の研究機関であるNIHは、「動物のエンブリオに人の幹細胞を付加することで、ヒトと動物のキメラを作る実験には、倫理的観点から問題がある」とし、それに関わる研究費を拠出しないと決定し、世界中の研究者が安堵していました。しかし、この決定もつかの間、この8月日に発表になったNIHの新しい案では、条件によっては、キメラ実験に研究費を与える用意があるとし、これまでの態度を180度変えたのです。今後は、新規に委員会を設置し、研究内容の倫理的側面や、監督を強化する予定です。
その条件というのは、ヒト以外の脊椎動物のエンブリオにヒトの細胞を導入する際の、エンブリオの発達段階として、中枢神経が形成開始前(原腸期:gastrula)については、厳格な審査をするというルールです。原腸期には、3つの層が形成され、ここから各組織や器官に分化します。この制限を設けることで、キメラ動物での脳にできるヒトの細胞の数を抑制しようという意図です。つまり、人間の脳をもった動物「スーパーアニマル」の出現を防ぐのが目的です。また、原腸期の後の発達段階にある哺乳類の脳(げっ歯類は除く)に、ヒトの細胞を導入する場合も同じく厳しい査定を受けることになります。動物の中で、交配可能となる、ヒトの精子や卵を作ることは引き続き禁じられます。
 研究助成金申請段階で、グレーゾーンと判断されるものは、審査委員会を通すことになります。ことに、神経を尖らせなければならないのが、人間の脳機能をもつ霊長類ができる可能性を徹底的に阻止することで、このことでは、審査委員会に期待するとしています。
「キメラ」は研究分野として成長株になっています。現在、早期のエンブリオの発達段階の研究や、ヒトの病気の動物モデルを作成することに使われています。しかし、主な目的の一つであるヒトの臓器を動物でつくることに関しては、まったく手がつけられていない状況です。つまり「キメラ動物でできたヒトの臓器」を取り出し、ヒトに移植しようという考えです。豚や、羊に、ヒトの腎臓を作らせ、それを使って、腎臓移植をしようというのです。確かに、臓器不足は移植医学の大きな問題で、この手法が的確に使用されることは望ましいと考える向きもあることは事実です。
しかし、このような研究は、公的にはもちろんのこと、私的な援助を受けた場合にも、厳格な審査を合格しなければ、英国では遂行できない仕組みができており、国民の理解を得ています。ことし、同国では、1月に施行された法律により、ヒトの外見を持つ動物キメラを作る場合、さらに厳しい審査を受けることが決まりました。しかし、そのほかの国に目を向けると、米国では、私的な援助であれば、研究の制限を受けていません。日本も同様で、実際、マウス内でラットの膵臓を作った研究グループが、我が国にあります(Kobayashi, T., Yamaguchi, T., Hamanaka, S., Kato-Itoh, M., Yamazaki, Y., Ibata, M., ... & Hirabayashi, M. (2010). Generation of rat pancreas in mouse by interspecific blastocyst injection of pluripotent stem cells. Cell, 142(5), 787-799. )。そのほか、ヒトの幹細胞をマウスのエンブリオに打ち込み、ヒトのメンタル疾患モデルを作成しているグループもあります。

ヒトの病気を治すという一見高尚な目標を持つ研究が、実は、動物の顔形を持ちながら、人間の脳機能を内在するキメラをつくる恐れがあるとしたらどのように一般大衆は捉えるのでしょうか。また、キメラ動物が有するヒトの細胞の数が、全体の51%になったら、このキメラは、「ヒト」と分類されるのか、という重大な倫理的問題が生じると論じる学者もいます。現代の「フランケンシュタイン」出現が現実のものとなってきた今、我々国民は、「心凍り付く」結果を招きかねない研究には「ストップ」を呼びかける勇気を持つべきではないでしょうか。