若い頃は近視で悩み、壮年期を経て中年期ともなると、ふと、見えにくさに気がつき、老眼や白内障、緑内障で悩みはじめるものです。生涯、視力を健康な状態に保っていられたら、どんなにか素晴らしいことでしょう。
近視や老眼は、めがねを用いることで、ある程度の視力は矯正可能ですが、角膜やレンズに濁りが生じた場合には、非侵襲的な治療では不十分なこともあり、手術を必要とする症例も少なくありません。「角膜の濁り」を治療するためには、「角膜移植術」、「レンズ(水晶体)の濁り」の場合は、小さなレンズを目の中に移植する(インプラント)法が、現在、臨床に用いられています。一方で、手術を用いた視力矯正治療は、100%安全かつ万能なものとはいいきれず、頻度は少ないにせよ、重大な合併症が報告されています。手術にともなう眼内の出血、また眼球の内容物が、切開口から流れ出てしまうと、失明にいたることがあり、特に要注意しなければなりません。その他、網膜はく離のリスク、眼内レンズ固定の困難さ等のテクニカルな問題、感染症リスクもあることは、手術を受ける側も十分な説明を受け、理解して治療に臨む必要があります。
角膜移植は、1905年に最初の報告がなされてから、いわゆる「ゴールドスタンダード」となりましたが、実は、他の臓器と違い、免疫反応は起きにくいのですが、一方で、移植後5年以内に拒絶反応が生じる症例も存在し、なんとか拒絶反応を起こさない移植方法が考案できないものか、と研究が進められてきました。昨今の研究の進歩で考え出されたのが、自分の目の幹細胞を取り出し、実験室のシャーレの上で、人工的に角膜上皮組織を作成した後、障害のある角膜に移植をするというものでした。この方法を用いた実験結果が、2010年NEJMに報告されました。損傷を受けていない側の眼の角膜縁に存在する自分の幹細胞を取り出し、シャーレのなかで、角膜上皮組織に分化させ、損傷を受けた角膜(やけどで角膜損傷を受けた112人の患者を選定)の治療を施した結果、「76%の高率の視力回復」という世界中の眼科医を驚かせた結果を得ました。
Rama, P., Matuska, S., Paganoni, G., Spinelli, A., De
Luca, M., & Pellegrini, G. (2010). Limbal stem-cell therapy and long-term
corneal regeneration. New England Journal
このアプローチは、優れた結果をもたらしましたが、残念なことに、角膜上皮組織を形成させるのに十分な数の幹細胞を採取することが、やけど以外の一般的な病気の場合、困難な症例が多いことです。この問題を解決するべく、「iPS細胞」を用いた研究が進められました。iPS細胞の場合は、患者の皮膚から細胞を取り出し、幹細胞に分化するよう誘導させる遺伝子を添加することで、どのような細胞にも分化可能な「幹細胞」を簡便かつ大量に作成可能で、移植に必要な十分な数の、良質な細胞を得ることができると考えられたからです。
今回、iPS細胞から分化させ、作成された角膜上皮組織を動物実験モデルに移植した結果、視力回復に有効であることを強く示唆できる研究成果が大阪大学から発表されましたので、ご紹介したいと思います。
Hayashi, R., Ishikawa, Y., Sasamoto, Y., Katori, R.,
Nomura, N., Ichikawa, T., ... & Quantock, A. J. (2016). Co-ordinated ocular
development from human iPS cells and recovery of corneal function. Nature, 531(7594),
376-380.
既に、目の一部、特に目の後ろの部分である網膜などに類似する細胞の作成には成功してきましたが、胎生期の目全体(網膜、角膜、水晶体)に類似する細胞を同時に作成できたのは初めてのことでした。この細胞は、<SEAM>と名付けられました。
SEAMは、4つの同心円上に並んだ、帯状の構造を持っています。この4つの帯状の構造のそれぞれに、角膜、水晶体、網膜へと分化される細胞が含まれることがわかりました。そして、角膜上皮組織を作る上で必須とされる<BMP>と呼ばれる細胞内シグナルをブロックする抗体を使うことで、内側から3番目の帯状の構造が、角膜上皮になる細胞を含むことがわかりました。
次いで、SEAMの3番目の帯状構造から、角膜上皮組織に分化する細胞を取り出し、シャーレの中で、角膜上皮組織を作成することに成功したのです。その後、あらかじめ角膜幹細胞を取り除いたウサギに、シャーレの中で作成した角膜上皮組織を移植すると、健常な角膜上皮組織が形成されることが実証されたのです。
大変エレガントな研究結果でした。今回の研究成果から、「角膜上皮組織治療のヒトへの応用」が現実的になってきていることは間違いなさそうです。問題点は、操作プロセスの煩雑性と費用がかかりすぎる点でしょうか。あくまで私見ですが、未だ長期にわたる臨床研究はなく、iPS細胞につきものの癌を誘発してしまうのではないか・・・、という懸念は払拭できません。
しかし、NatureのエディトリアルにUCLのダニエルズ博士が記載しているように、この研究の本当の意義は、「シャーレの中で、目全体の組織の分化が誘導できた」ということかもしれません。この結果を応用すれば、目のパーツのそれぞれの分化過程の詳細が明らかにされ、目の疾患の治療について、損傷を受けたそれぞれのパーツに応じて治す特定の方法の開発が実現するのではないか、と期待されるのです。
実際、白内障の手術も、インプラントなしで治癒可能とする方法論の開発も進んできています。なぜなら、レンズをつくる細胞を活性化させる「仕組みの解明」という基礎研究の成果が臨床応用されているのです。
今後は、基礎研究を臨床応用した、目の病気の解決に役立つ様々な治療法が開発されていくことが予想され、治療選択の幅も拡大することを期待して、この分野の研究の進捗状況からは目が離せません。