2016/07/19

第79回 愛し野塾 メンタル失調の治療介入体制のさらなる拡充とその整備(治療介入への投資費用と経済的見返りとの関係)





メンタル疾患に悩んでいる患者の数は、我が国では増加の一途を辿っています。その内訳に注目すると、うつ病や双極性障害、不安神経症を含む「気分障害」に罹患した患者の占める比率が顕著に増えていることに気がつきます。平成26年の調査では、「気分障害」を呈する患者数は114万人で、過去10年で約2倍に膨れ上がったという看過できない重大な状況が浮き彫りになりました。

厚生労働省の国内での調査結果(2009年)によると、メンタル疾患や自殺に伴う経済的社会的な損失は、少なくとも2.7兆円であり、この額は、GDP0.7%であることがわかりました。自殺者が、もし、自殺を予防できて、生涯働き続けられていたならば、その所得分が1兆9千億円であり、これは損失全体の70%強という巨額な割合を占めているのです。うつ病患者の生活保護の給付額分が3千億円に達し、加えて、医療費もほぼ同額と推算されています。うつ病患者が休業した場合の所得の減少額は1千億円。メンタル疾患は、患者当人、その家族の苦悩にとどまらず、いかに会社、地域、社会全体の問題であるかが、医療経済という側面から浮き彫りにされたのです。

さて、気分障害患者数が、なぜこんなに急激に増大したのでしょう。おそらく、産業効率を追求するがゆえに、実力主義・成果主義の台頭が顕著となり、それに伴って、年功賃金及び終身雇用を企業が維持することが難しくなってきたことが挙げられるでしょう。そのため、雇用される側のストレスが増加し、その悪化が気分障害患者を増やす主な原因となっているのではないか、と考えられます。また、グローバライゼーションによる企業間の国際競争の激化の末、倒産にいたる企業も後を絶たず、常に不安や緊張感が漂う労働環境であること、非正規雇用者の割合が増大し、職場における正規雇用者との不適正な職場レイアウトもまた、メンタル失調を引き起こす原因であることも鮮明化されてきました。

こうした、急激な労働環境の変化のもと、労働者のメンタル失調に対する抜本的対策について、国家レベルで見直すことは、緊急課題であることは言うまでもありません。

「メンタル失調の治療、及び予防」という命題について、世界に視野を広げても、具体的施策がとられていない現状が明らかです。日本などを含む高所得国ですら、メンタルヘルス対策として、年間、ひとりあたりわずか5000円の予算しかつけられておらず、低所得国ではさらに低く、200円という低予算と人権を無視したとも受け取れる現状です。治療を受ける側のニーズを満たすには、程遠い医療体制のもと、メンタル失調を来した患者とその家族の多くは、適切な医療が受けられず、途方に暮れているのが現状です。メンタル不調をきたせば、職場での生産効率は低下し、雇用主に損失を強いるだけではなく、それを補填するための労働負担によって、同僚のメンタルヘルスにも悪影響を与え、さらなる生産性の低下に拍車をかけるという悪循環がつくりだされています。

米国の試算では、メンタル失調等に伴う経済損失は、250兆円から850兆円、この損失は、2030年までには、倍増すると報告されています。私たちも、「日本でも、同じ道をたどることは避けられないだろう深刻な状況にある」ということを、まさに自覚しなければならない時だと思います。

これまで、メンタル失調者への治療介入にともなうコストの試算、介入による健康上の改善、すなわち「メンタル失調への介入の費用対効果の解析」について、それぞれの分野毎に特化した施策について、多くの研究報告が行われてきました。しかし、一方で、メンタル失調に悩む方を対象とした「包括的な施策」かつ、「広範囲な社会経済的効果を検討した研究」はほとんどありませんでした。今回ご紹介するランセット誌に発表された論文では、15歳以上のかたすべてを対象に、有病率が最も高いとされる、気分障害(うつ病と不安障害)に焦点を絞った「メンタルヘルス改善のための投資」をした場合、その経済的見返りがどの程度あるのかを解析した結果が報告されました。研究は、WHOのキスホルム博士が主導し、国際的にも高い注目を集めています。

Chisholm, D., Sweeny, K., Sheehan, P., Rasmussen, B., Smit, F., Cuijpers, P., & Saxena, S. (2016). Scaling-up treatment of depression and anxiety: a global return on investment analysis. The Lancet Psychiatry, 3(5), 415-424.

本研究では、日本を含む36カ国を対象国として、うつ病と不安障害に対して、医療投資を拡充した場合、その利益がどの程度あるのか、試算が試みられました。

研究対象となった地域は、WHOが定義する6つの主要地域すべてを含んだ世界人口の80%以上とし、鬱病と不安障害の患者数の80%以上を対象者としました。調査対象期間は、2016年から2030年とし、その間の、医療投資拡充施策が取られた場合に得られる利益が計算されました。

研究では、良好なメンタルヘルスの維持、及び健康的な生活の実現を「内在的価値」と定義され、良好な人間関係の形成、及び維持の実現、適切な労働環境、余暇を楽しめること、自身の生活全般において意思決定が可能であることなどを「手段的価値」と定義されました。これらの二つの価値のアセスメントをするにあたって、各国の医療措置必要者の人口数を求め、有効な介入をより大規模にすることで獲得できる「健康上の利益とはなにか」について定義されました。

介入治療の対象となった患者が、介入によって労働に従事することが可能となり、経済的生産性を上げた場合の経済効果、及び医療費の減少の程度を計算しました。「健康上の利益」の各項目はそれぞれ、「機能回復(機能低下時間が短縮すること)」、「回復率の改善(メンタル失調関連の有病率が時間経過とともに減少すること)」と設定されました。またうつ病の症例には、「自殺率の低下」「健康的な日常生活時間の延長」が介入によって獲得された利益としてのパラメーターとされました。

人口の試算には、国際連合が行った2010年の有病率の世界評価を用い、有病率はそれぞれ、不安障害が7.3%、うつ病は男性が3.2%、女性が5.5%という結果を得ました。2030年までの有病率の試算は、各国の医療で必要とされるリソース計算を世界で初めて可能にした、WHO作成の「ワンヘルス」キットが用いられました。このキットには、各国のうつ病、不安障害の有病率、発症率、回復率、死亡率、身体障害率を網羅した疫学調査結果データベースが含まれています。

治療手段としては、1)軽症の場合は、心理療法のみの介入とし、2)中等症から重症の場合は、最初のエピソードに伴うものか、繰り返す病態か、について区分した上で、心理療法と薬物療法の組み合わせによる治療を用いると仮定しました。

費用の計算には、WHOのデータベースにある2013年の各国の入院および外来での費用データが活用されました。1)軽症の場合は、1年あたり心理療法を4回施行した分の費用を概算、2)中等症から重症の場合、心理療法を14から18回分施行した場合の費用に加えて、6ヶ月間の抗うつ剤であるパキシル処方にかかる費用を合算しました。医療に従事する医師、看護師、心理療法士は、専門外のひとがあたることを仮定しました。3)重症例の場合、重症患者の2-3%のかたが14日間入院すると仮定しました。全費用の10%を医療者のトレーニング、薬の副作用のモニタリング、病気に対する市民への啓蒙などに要する費用がかかるものとして追加加算しました。
現在、うつ病の治療を受けているかたの割合は、全メンタル疾患患者数の7-28%で、不安神経症は、16-25%で、低所得国の場合は低く、高所得国の場合は、高いことがわかっています。治療介入の基準を拡大することで、高所得国の場合、ほぼ半数のかた、低所得国の場合でも3分の1のかたが治療介入された場合に要する費用について試算されました。

治療の効果

復職率は推定5%であり、これは、過去のデータ値の中央値でした。生産率の低下は、1年あたりの休職日数として示され、うつ病で4−15日、不安障害では、8−24日とされました。プレゼンティズム日数(出勤はしているものの、健康上の理由で本来発揮できるパフォーマンスが低下している状態)は、鬱病の場合、11−25日、不安障害の場合12−26日と試算されました。治療介入によって、休職日数、プレゼンティズム、ともに5%減少することが推定されました。

「健康上の利益によって帰結される経済効果の推算方法」には、スタンバーグ博士らが提唱する概算式が用いられました。彼らの研究から、すでに寿命が1年伸びることで、ひとり当たりの国家の歳入は、1.6倍に増加するという結果を得ています(Lancet 2014;383:1333-54)。

結果

仮に治療体制の規模拡大をしなければ、毎年120億日の労働日数の喪失が生じ、92.5兆円の損失があると推定されました。一方で、仮に治療規模の拡大をすれば、うつ病への治療介入に9.1兆円、不安障害の治療介入に5.6兆円が必要となり、仮にこれだけの投資を行えば、今後15年間で、うつ病患者数は、7300万人減少、不安障害は、4500万人減少することが予測されました。治療介入費用投入による「経済的見返り」は、投資額の2.3倍から3.0倍になることが予測されました。さらに健康上えられる利益を含めると、経済的見返りは、3.3−5.7倍になりました。

さて、これまでの研究例を参照すると、「マラリア予防対策のための投資とその経済的見返り」を検討した結果報告では、その経済的見返りは、投資額の28から40倍に及ぶことが報告されています。この数字は今回、得られた数値に比べて有意に高い値を示します。いうまでもなく、マラリアなど、感染症の投資に対する経済的見返りは明白で、投資に対する国民のコンセンサスが得られやすいのは事実です。また、母体・新生児・胎児・子供の健康増進に投資した場合の経済的見返りは、10倍程度であるにもかかわらず、この類の投資についても、国民のコンセンサスが得やすいことも倫理的・社会的側面から納得できるものでしょう。同じように、今回、施行されたメンタル失調者への治療介入拡大による経済的見返りの試算結果は、人間の尊厳の回復といった、いわば精神健康上の利益を加味すれば、前例の比率に匹敵するところであり、数値だけで単純に投資に対する見返りが少ないとはいえず、メンタル失調者への治療介入拡大という施策は、まさに投資に値する施策であると結論づけられます。

さて、本研究では、「有病率の予測値」は、これまでの様々な研究からえら得た知見をもとに概算され、それなりに妥当性があると考えられますが、一方で、全患者のうち治療対象になっている患者数を示す治療率の予測値の試算には、疑問を持たずにいられません。それは推定の概念として、今後15年間で治療を受けられるひとが、直線的に増加することを仮定している点です。そのためには、第一に、医療資源をこの方向に振り分ける政治的な決定が必要であることはいうまでもないでしょう。メンタル失調症の患者を診断かつ治療する体制を整備することは、世界経済が混迷する中で、さらに各国のあらゆる事情も察すると、毎年同じ率で治療率を向上させられるのかどうか、疑問が残るところです。治療率が向上し、さらにこうした改善策を過疎地域にまで拡大すれば、膨大な経費がかかるのは明らかです。事実、低所得国の多くの国においては、エボラやジカなどの感染症予防対策、水・衛生改善が優先されるでしょう。こうした背景からメンタル失調者治療介入の改善の方策は、かなり複雑化せざるを得ないことは明白です。

議論されるべきもう一つの問題は、経済的見返りの推算方法です。治療介入によって改善される、患者の労働参加率の向上、かつ生産効率の改善、総じて推算される経済的見返りの推定には、未だ確乎たる計算式が確立されていません。本研究で用いられたワンヘルスキットも、様々なデータソースをもとにつくられており、疾病率の予測、介入効果予測についての仮定条件も多く援用しており、正確性には、未だ改善の余地があるものとされています。

また、すでに精神保健分野で頻繁に議論されてきた、「母親の鬱病が子供の成長に与える影響」、「患者への金銭的、非金銭的援助が家族に与える影響」、「うつ病治療がそのほかの疾患(高血圧、虚血性心疾患など)に与える影響」、「うつ病と不安障害が併発した場合の治療の効果」、「社会経済的地位がメンタル不調に及ぼす影響」などについては、今回の試算では、考慮していません。こういった多角的な側面を捉えメンタル不調者への介入の効果を測れば、経済的見返りの程度はさらに大きくなることが予測されます。

いずれにしろ、メンタル失調症に対して抜本的対策を施すことなく傍観していることは、人道上、許されない状況です。今回の研究成果が、国の施策として一刻も早く、反映されるよう願うばかりです。国連が初めて「持続可能な開発目標 2016−2030年」に精神保健を取り上げたことも特記すべきことだと思います。今後、メンタル失調を来す患者を社会的に救うためにも、メンタル失調を「不名誉な病気」として捉える風潮を一蹴する、国家規模、地球規模のキャンペーンをはることは、早期の治療介入施策の社会的コンセンサスを得るためにも、重要なポイントとなるでしょう。